北の街へ(前編)
三月最後の朝、機体が雲を抜けると、窓の下にはまだ冬を手放しきれない北海道が広がっていた。
雪は消えかけている。白い大地はところどころ黒い土をのぞかせ、蛇行する川だけが鈍い銀色に光っていた。東京では桜が満開だというニュースを出発前に見たばかりだが、この景色には春という言葉がまだ似合わない。
形成外科医・神崎悠人は額を窓にもたれさせ、小さく息をついた。
二十九歳。
大学病院で四年間働き、ようやく手術にも自信がついてきた頃だった。
「地方へ行けば、もっと執刀できる。」
教授はそう言った。
間違いではない。地方には形成外科医が少ない。顔面外傷、熱傷、皮膚腫瘍、慢性創傷……形成外科が担う仕事は決して美容だけではない。むしろ、人の生活を取り戻すための手術の方が圧倒的に多い。
神崎自身も、それを望んでいた。
だが、それだけではなかった。
大学病院では、一人の患者に向き合う時間があまりにも短かった。
朝六時に病棟へ行き、回診を終え、手術をして、外来を回り、書類を書き終える頃には日付が変わる。患者の顔は覚えていても、人生までは知らない。
形成外科医は「傷」を治す仕事だ。
しかし本当に治さなければならないのは、傷そのものではなく、その人の人生なのではないか。
そんな青臭い理想を抱いたまま、神崎は北海道行きの辞令を受け入れた。
飛行機が着陸すると、冷たい空気が肺の奥まで入り込む。
「寒……」
三月とは思えない風だった。
空港を出ると、病院の事務職員がワゴン車で迎えに来ていた。
「神崎先生ですね。遠いところお疲れさまでした。」
運転していたのは四十代くらいの男性だった。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
車は海沿いの国道を走る。
右手には灰色の海。
左手には針葉樹の森。
道路脇には雪が残り、その向こうには古びた漁港が見えた。
「静かな町ですね。」
神崎が言うと、運転手は笑った。
「静かですよ。本当に何もありません。」
その言葉にはどこか誇らしさがあった。
「先生は都会から来たんですよね?」
「東京です。」
「じゃあ退屈するかもしれませんね。」
「退屈なくらいがちょうどいいですよ。」
神崎が笑うと、運転手もつられて笑った。
だが、その笑顔は長く続かなかった。
「ああ……でも。」
少しだけ間を置いて運転手が続ける。
「昔はいろいろあった町なんです。」
「昔?」
「いや……忘れてください。」
それ以上は話さなかった。
病院が見えてきた。
四階建ての白い建物は新しくはないが、外壁はきれいに塗り直されている。正面玄関には小さな花壇があり、色とりどりのパンジーが寒さに耐えながら咲いていた。
玄関をくぐると、消毒液の匂いが鼻をくすぐる。
この匂いだけは全国どこの病院でも同じだ。
看護師たちが忙しく行き交い、受付では高齢の患者が世間話をしている。
大学病院の張り詰めた空気とは違う。
ここには生活があった。
「神崎先生!」
白衣姿の女性が近づいてきた。
「師長の高橋です。よろしくお願いします。」
三十代後半だろうか。てきぱきとした口調だが、笑うと目尻に優しい皺が寄る。
「こちらこそお願いします。」
「先生、形成外科が常勤になるのは久しぶりなんです。みんな期待していますよ。」
「期待に応えられるよう頑張ります。」
「頑張りすぎる先生ほど倒れますからね。」
高橋は笑った。
「ほどほどでお願いします。」
病棟を案内されながら、神崎はスタッフ一人ひとりに頭を下げた。
外科医、整形外科医、皮膚科医、リハビリスタッフ。
どの顔にも穏やかさがある。
その一方で、どこか「よそ者」を静かに観察するような視線も感じた。
地方では珍しいことではない。
神崎も気に留めなかった。
最後に病院長室へ通される。
「ようこそ。」
病院長・佐伯は六十五歳ほどの男性だった。
白髪交じりの髪をきれいに整え、柔らかな笑みを浮かべている。
「形成外科医をずっと待っていました。」
「ありがとうございます。」
「この町は高齢者が多い。褥瘡もありますし、皮膚腫瘍や顔面外傷も少なくありません。先生の力を借りたい。」
病院長は穏やかな口調のまま窓の外へ目を向けた。
窓の向こうには、黒々とした森が広がっている。
「あの森は昔から変わりません。」
独り言のようにつぶやく。
「え?」
「いや……何でもありません。」
佐伯はすぐに笑顔へ戻った。
「この町は静かです。事件らしい事件もありません。先生もすぐに気に入りますよ。」
その言葉を聞いた瞬間、不意に救急外来のアナウンスが院内へ響いた。
> 「救急車、搬送まで二分。十六歳女性。顔面外傷。出血多量。」
高橋師長が病院長室の扉を勢いよく開ける。
「先生、形成外科お願いします!」
神崎は返事をするより早く立ち上がっていた。
初出勤、初めての患者。
白衣の裾を翻し、救急外来へ向かって走る。
まだこの時、彼は知らなかった。
この少女との出会いが、自分の人生だけでなく、この町が二十年間ひた隠しにしてきた過去を暴く始まりになることを。




