第七項 王が認めるってなんだよ
お気に入り、閲覧ありがとございます
励みになります
「す、住むたってお前……ベッドは、ひとつだし」
開発員は瞳を大きく開いたまま、台の上に胡座を作り直したキャスバルの目を見続けていた。
この工房にあるのは、かろうじて大人一人が暮らせる程度の居住域が、ただひとつ。工房の隅を無理やり仕切って作ったような場所で、まともな客人を泊められるようなものではない。
そもそも、いくらキャスバルといえど、女は女、こんな汚くて辺鄙なところに泊まるべきではないのだ。
「変な心配をするな。わたしは兵士だ。立ったままでも寝られる」
しかし、その心配は訳のわからない理屈によって、あっさり押し流されようとしていた。
立ったまま寝られる? 馬鹿言うな。
そう言い返そうと思った開発員だったが、相手は普通が通用しないキャスバルである。開きかけた口を、彼は何も言わずに一度閉じた。
代わりに、キャスバルの口から出た「兵士」という単語を利用することにした。
「お前、軍属だよな。そんなこと、許されないだろ」
「なぜ、許されない」
「なぜって……軍ってのは、そういうものだろうが」
「わからんな。王は迷いもせず認めてくれたぞ」
王。
その言葉を聞いて、いよいよ開発員は、自分の預かり知らないところでのキャスバルについて気になり始めた。
王が迷いもせず、自由に工業区画で過ごして良いという許可を与える。
王直属の親衛隊ですら、そう簡単には預かれないような贔屓である。それが、迷いもせず、だ。
この女は、一体何者なのだろうか。
まだ軍に所属して、一月が経つか経たないか程度のはずだ。そのような者が、王すら動かす。実績があるのはわかる。ただ、王だ。
ありえない。
そう思うのは、何も不思議なことではない。
「嘘つくな」
とすれば、この事実は嘘。
開発員は、キャスバルが嘘をついていると断定することにした。いや、それしかできなかった。
開発員の生きている世界は狭い。工房の外で起きていることなど、基本的には自分に関係のない遠い出来事でしかない。彼はこれまで、余計な情報を遮断して生きてきた。キャスバルを通して新聞を買うようなことはあったが、根本の性格が急に変わるわけではない。
「なんだ。このわたしを嘘つき呼ばわりか」
「当たり前だろ。たかが新兵の我儘を、なんで国王が聞くんだよ」
普通に考えればおかしい。
その開発員の主張は、何も間違ってなどいない。それほどまでに、王という存在は下々とは次元が違う。
世間がどれほどキャスバルを持て囃そうが、開発員にとってそれは噂の域を出ないものでしかない。今もそうだ。目の前にいる女は、無礼で傲慢、ただそれだけ。
ただ、嘘呼ばわりされたキャスバルはというと、腕組みをしたまま、人差し指で自身の二の腕をトントンと叩いていた。苛立ちを逃がすような、あるいは何かを整えるような、妙に規則正しい動きだった。
その鋭い双眸は、開発員を真っ直ぐに睨んでいる。
開発員の額に、じわりと冷や汗が浮かんだ。
キャスバルの背中から、黒いモヤのようなものが、じわりと滲み出ているように見えたからだ。
「ふん、つべこべとよく語る。自分の価値もわからん愚か者は、黙って言うことを聞けばいい」
黒いモヤは、キャスバルの背後でゆっくりと蠢いた。
工房の薄暗さが見せた錯覚ではない。少なくとも、開発員の目にはそう見えなかった。煙のようでありながら、煙ではない。油汚れの空気に紛れるにはあまりにも濃く、キャスバルの呼吸や指先の動きに合わせるように、背の周りでまとまりかけていた。
だが、次の瞬間、それはぱっと四散した。
まるで、キャスバルが自分の内側にあった何かを振り払ったかのようだった。
黒いモヤは跡形もなく消え、工房は何事もなかったかのように、いつもの薄汚れた姿を取り戻していた。
「黙って聞け、はこっちの台詞だ。ここは俺の工房だ。黙って言うことを聞くのは、人の棲家に勝手居座ろうとしているお前の方だろ」
「護衛はいらないと?」
「ああ、そうだ。考えてもみろ。ここに大金があることを知ってる奴なんて限られてる。それに、ここ周辺は王都の役立たずどもを集めたような工業区画だ。わざわざ端金目的で襲撃をかける輩はいないだろうよ」
「端金と思ってなければどうする。油断は人を殺す」
その声は、妙に重かった。
ただの理屈ではない。戦場で何かを見てきた者の言葉だと、開発員にもわかった。
だが、それとこれとは別である。
「そうだとしてもだ。こちとら、お前と同居している絵面なんか思い描けないんだよ。頼むから分かってくれ。な?」
「……なるほど、あくまでも貫くか。貴様の気持ちについてはよくわかった」
「っ! そうか! わかってくれたか。それはありがた――」
「だが、これは確定事項だ。諦めるんだな」
「……」
開発員は絶句した。
確定事項。
一体、何の権限を持ってしての確定事項なのか。
王の命令か。軍の偉い方か。それとも貴族か。
違う。
これはただの、キャスバルの傲慢さにすぎない。
王ですら無茶な要求を認めてしまう存在だからこその、自分の意見は必ず通るという独裁。そうとしか思えなかった。
その唯我独尊ぶりに、開発員の中で確かな苛立ちが募っていく。
ただ、それは妙な苛立ちだった。
怒りに支配されるというより、むしろ冷静にキャスバルという女を見てしまう。
例えば、一度、この女は本気で誰かに怒られた方が良いのではないだろうか。
まだ二十二歳のキャスバルが、このまま何でも通ることに味を占めた大人になるのは、さすがにまずいのではないだろうか。
気がつけば、キャスバルへの苛立ちよりも、大人としての妙な使命感のようなものが、開発員の心を支配し始めていた。
ならば、と。
開発員は、この小娘を教育することに決めた。
開発員は一度キャスバルから視線を逸らすと、台の上に転がっていたペンを手に取った。握りしめたそれは、相手に言葉をぶつけるための支えでもあり、自分を落ち着かせるための仕事道具でもあった。
そして、再びキャスバルを見た。
「あのな、キャスバル。たとえお前がどれほど強かろうともだ。その強さに任せて、人の心までは掴めないってのは理解してるか?」
「なんだ、急に。説教か。親でも教官でもないくせに」
「ああ、そうともさ。確かに俺はお前の親でもなければ教官でもない。今目の前にいるのは、貧乏な齢三十五のおっさんで、大した発言力もない野郎だ。それに関しては間違いない」
「ふん。いきなり自虐か。そんなものにかませて言うことを聞かせようとしているのか。浅はかだな」
「いいから聞け。人の心を掴むってのは、別に好かれるか好かれないかだけの意味じゃない。お前は恐れられてる。どれほど強いのかは分からねぇけど、確かに怖がられている。つまり、それは嫌われていることと紙一重だ」
「……なんだと」
キャスバルの背中から、またしても黒いモヤが滲み出た。
今度は先ほどよりも細く、しかし濃い。苛立ちが形を取ったように、彼女の肩口から背中へ、ゆっくりと揺れている。
キャスバルの瞳は細められていた。開いているかも分からない口元から、低い声が漏れる。
「わたしは人気がある。歩いていればサインも求められるし、英雄だと褒められる。これのどこが嫌われているというのだ」
「なら、俺はお前のことを嫌っても、何も問題なしか?」
「……なに」
「お前は人気がある。それは確かだ。だから、こんなどうでもいい開発員には唯我独尊に振る舞って嫌われてもいい。そういうことだろ」
「違う」
「いや、お前が言ってるのはそういうことだ。特定の人に好かれられたからといって、別の誰かに恐れられない保証も、嫌われない保証もどこにもない。立場や考え方は、それぞれ違うからな」
「……それは」
キャスバルは鋭い目を泳がせた。
結局、彼女は腕を組んだまま、自身の左腕をじっと見下ろした。
その様子を見て、開発員は立ち上がった。
受付台を開け、工房の奥、作業場へ入っていく。キャスバルもその背を追うように、彼の背中を睨みながら、台から飛び降りて静かについてきた。
「その黒いモヤも脅しだ。これ見よがしに見せつけやがって」
開発員はそう言いながら、工房の床に乱雑に置かれていた木板と紙を手に取った。しゃがみ込み、木板の上に紙を固定する。
明日の早朝には、メイド装束の開発にあたって大量の機材や素材が届く。事前に搬入や整理の段取りを組んでおかなければならない。キャスバルと向き合うのも大事だが、だからといって現実問題を放置するわけにもいかなかった。
開発員は、工房内のあちらこちらへ視線を滑らせながら、紙にメモを認めていく。ペンの先が、裏の木板の硬さを拾いながら、短い線を刻んでいった。
紙の上には、工房を表した四角い広場と、そこをいくつもの線で区切った区画のようなものが描かれていった。さらに、端的な数字や一文字程度の言葉が細かく配置されていく。傍から見れば、ほとんど暗号のようなものだった。
「お前は、わたしを嫌うのか」
集中する開発員の後ろから、声が届いた。
開発員は手を止めなかった。振り返りもしない。ただ、短く息を吐くだけにとどめて、端的に言葉を放った。
「お前がそのままならな」
開発員は壁際に視線を滑らせ、不備がないかを確認していく。
そして、いつぞやにカーテンを失ったままの窓枠へ視線を向けたところで、目が止まった。
むき出しのままの木枠の両脇には、かつて布が掛かっていた跡だけが、うっすらと白く残っている。
開発員は静かに、そこへ歩いていく。
ペンを手にしたまま、頭をぽりぽりと掻いた。
「しまった。カーテンまでは発注してなかった」
舌打ちと共に、体を反転させる。
その先に、キャスバルがいた。
彼女は腕組みをやめ、両手をまっすぐ下へ垂らしていた。指先は、ズボンのポケットの端を、ちょこんと摘んでいる。
「わかった。出ていく。お前に嫌われるのは、いやだからな」
「そうか。そうしてくれ」
キャスバルは背を向けた。
お前に嫌われるのは嫌。
その言葉に、開発員は心なしか、嬉しい気持ちを抱いていた。
キャスバルは背を向けている。誰にも見られない。
開発員は、にやにやした顔を惜しげもなく披露した。
「だがな、開発員」
ただ、キャスバルが急に立ち止まった。
そして、彼女が振り向く前に、咄嗟に開発員は表情に緊張感を作り出した。
「お前の護衛を諦めるとは言わない。何日かは隣の工房で過ごす。隣の奴にはどれほど嫌われても構わんからな」
それだけ言うと、キャスバルは開発員の言葉を待たず、いよいよ背を向けて立ち去ってしまった。
隣の人には嫌われてもいい。
開発員にとっては、嬉しくない言葉だった。およそ、自分の言葉が心理的に刺さったとは言い難い成果であることは、間違いない。
「まるでわかってねーな、あいつ」
果たしてそれは、開発員の説教が下手すぎたのか。
それとも単に、キャスバルがそういう人、ということなのか。
今この場には、その答えを出す者はいない。
「やれやれ」
開発員は肩をすくめると、胸の前に木板を持ち上げ、不備を確認し始めるのだった。




