第六項 ファン交流会
平日の午後、開発員は王都中枢にある技術推進総本部へ自らの足で来ていた。馬車は手配すればある。ただ、開発員は工房の人間だ。臭いや染みついた衣服の汚れから、歓迎されないのは目に見えている。
工業区画からここまで、徒歩でおよそ二時間。王都の華やかな街並みに似つかわしくない簡素なシャツは汗で濁り、額にはじっとりとした脂汗が浮いている。馬車は使っていない。彼は眩しさに目を細めながら、威容を誇る大工房の受付と対峙していた。
技術推進総本部。
王都軍の装備開発、修理、検品、量産、その大半を担うと言っても過言ではない巨大な工房である。
奥では何列もの炉が赤々と燃え、鉄を打つ音、蒸気が抜ける音、運搬用の滑車が軋む音が絶え間なく響いていた。天井からは太い鎖と金属製の滑車が垂れ下がり、複数の職人が無言で荷を運び、別の職人たちは火花の中で黙々と鉄を鍛えている。
炉の熱気は入口近くまで押し寄せ、開発員の頬をじりじりと炙った。
百人を超える職人が常駐し、軍の激務を支え続ける、まさに職人にとっての夢のような場所。
その受付を一手に担っていたのは、大きめで色褪せたゴーグルを頭に乗せ、ふくよかな腹でエプロンに丸い曲線を作っている女性だった。
開発員は、彼女のことをよく知っていた。
本来なら、受付などやる立場ではないはずだ。おそらく、若い受付係に気を利かせて休憩へ行かせたのだろう。
よりによっていきなりか。と、開発員は内心で悪態をつく。
彼女は齢六十にしてなお、現役の職人たちを怒鳴り飛ばすだけの活力を持っている。かつての大怪我で右足を失い、今は義足で歩いているため足取りこそ万全ではないが、その存在感は、周囲の若い職人たちを黙らせるには十分すぎた。
問題は、その女性が受付に現れた開発員を視界に収めた瞬間、露骨に忙しそうな振る舞いを始めたことだった。
開発員がここへ来たとき、彼女は煤で汚れた頬を指先でこすりながら、暇そうに受付台へ腰を預けていた。だというのに、開発員の姿を見つけた途端、彼女は彼を完全に無視し、積まれた木箱を意味もなく崩しては元に戻し、受付台の下からペンチと布巾を取り出して、壁際の配管を何かしらいじり始めた。
布巾で配管を拭う。
ペンチで締める。
少し離れて眺める。
何もなかったように、また別の配管へ手を伸ばす。
開発員はそれを邪魔せず、黙って見ていた。
「リスク……七年ぶりくらいか」
女性はため息を吐き、ぼそりと呟いた。
工房の奥からは鉄を打つ音や炉が唸る音が響いている。それでも、その呟きは、開発員の耳に障害なく届いた。
少しして、女性はすっかり油で黒ずんだ布巾を床に叩きつけた。
義足の足音をわざと鳴らすようにして、受付台の前へと戻ってくる。硬い床を打つ金属質の一歩が、一定の間隔で近づいてきた。
「今更なにしに来たんだい。私の足をぶっ壊したお詫びを、とうとうする気にでもなったってのかい?」
「いや……その足は、俺のせいじゃねーだろ」
「何を言うんだい! あんたが持ってきた訳の分からん依頼のせいで、こんな目さね! わたしゃあ、あんたを許した日なんて一度たりともないからね!」
突如放たれたその声量は、工房中の音を引き裂くほどの轟音だった。
その証拠に、彼女が声を荒げた一瞬、鉄を打つ音も、炉の唸りも、職人たちの足音すらも止まった。まるで大工房全体が、彼女の声に殴られて停止したかのようだった。
開発員はというと、両手を耳に当てていた。
彼女をよく知っているからこそ、わかりきっていたことだ。事前の対策は完璧だった。
「騒音のニャイノート……健在だな」
「うるさいよ。さっさと用件を言いな」
開発員は片唇を歪ませると、ズボンの後ろポケットへ手を突っ込み、八つ折りほどに畳まれた紙を取り出した。
ニャイノートはそれをひったくるように奪い取り、紙を開く。
彼女の目が、紙面の上を一瞬だけ鋭く走った。
次の瞬間には、もう紙は閉じられていた。
「いきなり来たかと思えば、随分な素材だね。これを一日で用意しろと?」
閉じた紙を、ニャイノートは開発員の腹へ投げ返した。
紙は彼の腹部に当たる。開発員は落とさないように、自分の手と腹でそれを押さえた。
「あるだろ、これくらい」
「そりゃあ、あるにはあるさ。たんまりとね。けど、お前にくれてやるものは何一つとしてないよ。それに、魔力炉だって?ふざけんじゃないよ」
開発員は口をへの字に曲げた。
舌打ちが出そうになる。それを、かろうじて抑え込む。
「さっさと帰んな、貧乏工房の主人さんよ。ここは、お前のような輩が来るところじゃないんだよ」
そう言い捨てると、ニャイノートはもう話は終わりとばかりに開発員へ背を向け、工房内の方向へ腕を振り始めた。
「……貴族案件だとしてもか」
ニャイノートの足が止まった。
「なんだって?」
姿勢はそのままに、首だけが開発員の方へ返る。
その目は僅かに細められていた。嘘を言うなら殺す、とでも言わんばかりの迫力がある。
「貴族案件だと言ったんだ。追い返すのは自由だが、そのあとが怖いぞ」
「……言うじゃないか。一体、どこの誰だってんだ」
「傲慢卿だ。報酬も事前にもらっている」
「なにを、馬鹿な」
ニャイノートはそう言うと、義足に体重を預けながら、不安定に体を揺らして受付台の前まで戻ってきた。
そして、黒鉄のパイプを溶接して作ったかのような、いかにも工房らしい無骨で重厚な椅子へと腰を下ろす。
ただ、座面部分には細かなスプリングとメッシュ素材が編み込まれており、着席者への配慮が見て取れた。
「貴族の名を騙って嘘をつく輩はいない。……本当なんだね」
「ああ、本当だ。だから、言うとおりにしてくれ」
「……面倒な男になっちまって」
ニャイノートは少しかがむと、受付台の下から紙の束とペンを取り出した。
そして、素材と思しき名前とその個数を、箇条書きで記していく。
開発員は黙って、その手元を見ていた。
迷いがない。
ニャイノートのペン先は、一度も止まらなかった。素材の名、必要数、保管区画、搬出経路、加工前の注意点。
まるで大工房の内部すべてが、彼女の頭の中にそのまま刻み込まれているかのようだった。
騒音のニャイノート。
天図のニャイノート。
瞬記のニャイノート。
三つの異名を持つ、齢六十にして未だ一線の覇者。工房に関するあらゆることを、一度見たら忘れない。天性の才能そのものを持つ、王都の工房長に相応しい実力者だった。
「わかったよ。怠りなく手配して、明日の朝には工房に届くよう仕組んでおくさね。けど、近隣の迷惑にはなる」
「わかってる。それでいい。対価は工房で払うが、釣りはたんまり用意しとけよ」
ニャイノートは眉を曲げ、怪訝な顔を作った。
開発員はそんな彼女へ僅かに頭を下げ、受付台に背を向けて歩き出した。
「ああ、そうだ。……フロントの天使の装備を作ったのは、どうせお前さな?」
背中に降りかかる、ニャイノートの声。
その声に釣られ、開発員は一度立ち止まった。
しかし、振り返ることはなかった。右手だけを上げ、ひらひらとさせると、再び歩き出す。
適当に昼食を済ませた開発員は、工業区画へ戻っていた。
見慣れた景色が広がっている。油で黒ずんだ地面に、隣り合う小さな工房。相変わらず低い煙突から吐き出される灰色の煙は臭く景色を濁し、遠くから聞こえてくる金槌の音は耳を騒がせる。
けれど、何かが違っていた。
「……人がすくねーな」
違和感に気づき、ぽつりと独り言をこぼす。
普段なら昼過ぎの工業区画には、荷を運ぶ職人や、店先で怒鳴る商人、暇を持て余して立ち話をする連中がちらほらいる。だが今は、通りの人影が妙に少ない。
妙な胸騒ぎを覚えながら、自分の工房へと歩みを進める。
そして、違和感の正体はすぐにわかった。
「……は?」
人だかり。
開発員の工房の前に、溢れるばかりの人が群がっていた。
商店のおばさん。
近隣の工房仲間。
貴族に連れ去られた娘のことで、今も悲嘆に暮れている商店の主人。
普段はめったに表へ出てこない職人まで、そこに混じっている。
ざわめきがある。
笑い声がある。
誰かが背伸びをし、誰かが入口の方を覗き込もうとしていた。
「まさか、空き巣か!」
開発員の心臓が、ありえないほど大きく跳ねた。
金貨二十枚。
その存在が脳裏を殴りつける。そんな大金が眠っているのを知っているのはこの区画では自分だけだ。だが、いかにも高級そうな箱を持った男たちが外で待機していた事実がある。完全に、無い話ではない。
下手をすれば足を捻る。それくらいの勢いで、彼は真っ直ぐその人だかりへと走っていった。
「あ、お前さん!」
「ダッチ!」
人だかりに近づくにつれ、聞き慣れた声がいくつも届く。
ただ、彼の耳にその音は届いていても、脳までは届いていなかった。
開発員は人だかりを押し除けるようにして、やっと自分の工房の前へとたどり着く。
「……なっ」
しっかり施錠したはずの工房の扉が、壊れていた。
蝶番は歪み、木板には大きな亀裂が走っている。できた隙間から、工房内に染み付いた独特の鉄と油の匂いが、風に煽られて漂ってきた。
開発員の全身から、汗が吹き出した。
恐る恐る、扉に手を伸ばす。
触れた瞬間、扉はあっけなく倒れた。
激しい音が響き、乾いた土埃が舞う。
その向こうに、受付台が見えた。
「ん。やっと帰ってきたか。留守だから、勝手に邪魔をさせてもらった」
台の上には、いるはずのない輩がいた。
簡素なネイビーのシャツに、ダメージジーンズ。足元には、立派な革でできた底の厚い靴。
その女は受付台の上であぐらをかき、こちらを見ていた。
「扉のことは、すまない。留守だとは思わず、少し強めに叩いてしまったんだ。悪気はなかった。許してくれ」
キャスバルはひょいと台から降りる。
靴底が床を鳴らした。
彼女はそのまま、何事もなかったかのように開発員の元まで歩いてくる。
開発員は口をあんぐりと開け、視線を彷徨わせた。訳がわからず、答えを求めるように背後を振り返る。
そこにいた群衆は、彼の困惑など知ったことではないとばかりに、満足げな顔をしていた。
「フロントの天使を直に見れた。感謝するよ」
「主人が帰った。時間切れだ、帰るぞ」
「ダッチ、フロントの天使といつ仲良くなったんだ? あとで紹介してくれよ」
中には開発員の肩を叩く者もあった。
だが、それが誰だったのかすら、今の彼にはよくわからない。
一人、また一人と人だかりは解けていく。さっきまで工房の前を埋め尽くしていた人々は、騒ぎの余韻だけを残してそれぞれの持ち場へ戻っていった。
開発員は、ただ呆然としていた。
「みんなにサインをねだられてな。一人残らず書いてやったところだ。あとは、お前が帰ってくるまで気が済むまで見てていいと言った」
キャスバルは開発員の目から視線を外すと、壊れた扉を片腕で持ち上げた。
そして、一応は入口を塞ぐように立てかける。
その動作に、苦労の色はない。
さらに、なお動けないでいる開発員の腕を掴むと、導くように受付台の方へと歩いていった。
「さっきから何を黙っている」
「いや、おまえ……なんで」
「なんで、だと? わかりきったことを言うな」
キャスバルは開発員から離れると、工房の壁際、その床で不自然に盛り上がった雑誌の束の側まで歩いていった。
そして、その束の中へ腕を突っ込む。
引き抜かれたのは、ひとつの箱だった。
金貨の入った箱。
わざわざ台の上から工房の端まで運ぶだけでも苦労した、あの重厚な箱である。
ただし、彼女はその箱を、人差し指と親指だけでつまんで持ち上げていた。
「こんなものを置いておいて、強盗にでもあったらどうする。つまり、そういうことだ」
開発員は、力なくパイプ椅子へと座った。
キャスバルはその金貨箱を台へと置く。
重厚な音が工房に響き、その衝撃で、台の端に残っていた鉄屑が跳ねた。
小さな欠片が開発員の膝へ落ち、そこで止まらず、床へ転がっていく。
「……訳が分からん。なんで金貨の場所を知ってんだ。」
「前に来た時と臭いが違う、それだけだ。あとな開発員、私はここに泊まる」
「は……は?」
「聞こえなかったか? しばらくここに住むと言ったんだ。この金と、貴様を守るためにな」




