第四項 背が高い
工房の最も奥まった、薄暗い一角。油と鉄の匂いが染み付いたその空間には、簡易的な合成板で雑に仕切られただけの居住域が存在する。
一応、形ばかりの調理をするための最低限の設備や、食材を保存するための古びた冷蔵庫が置かれている。そしてその真横には、万年床と化したベッドがあり、上には長年の埃と油を吸って黒ずんだ、硬い布団が敷かれている。
男はそこで、死体のように力なく横たわっていた。
静まり返った狭い空間の中で、真横にある冷蔵庫のコンプレッサーだけが、不規則な稼働音を忙しなく鳴らしている。時折それは、思い出したように大きく身震いし、また元の頼りない唸りへと戻っていった。
キャスバルは冷蔵庫の冷たい扉に背中と肩を預けながら、硬い布団の上で呻く彼を、静かに見下ろし続けていた。
別に男は気を失ったわけではない。ただ、強烈な酒のダメージから逃れるため、男自身の希望でここまで引きずって連れて来てやったにすぎない。
「あぁ、ひでーめにあった」
「わたしのせいか」
「……悪気は感じねぇんだよなぁ」
男はキャスバルの目を真っ直ぐに見ながら、正面切って失礼な本音をぶつけた。
彼女はわざわざ礼をするためだけに、二十日ぶりにこの場末の工房へやってきた。自らの型破りな装甲を現実のものとして作り上げた恩人に対し、わざわざ高価な毒のような酒を買ってきて痛い目を見せようなどと、悪意を持って企むはずもないだろう。
本当に、彼女自身が試し飲みをして何も問題が起きなかったからこそ、ただ純粋な感謝の証として持ってきた。ただそれだけのことなのだと、男には理解できていた。
「んく……んく……」
キャスバルは軽く肩をすくめると、革ジャケットの胸ポケットから先ほどの極小瓶を再び取り出し、親指で軽快に蓋を弾き開けた。そして、常人なら悶絶する悪魔の酒を、間髪入れずに一気に喉の奥へと流し込んでしまった。細い喉が、こくり、こくりと上下する。
「ただの酒だな。特段旨くもない」
キャスバルは空になった極小瓶を、つまらなそうに文句を言いながら、無造作に部屋の隅へ放り投げた。ガラスが硬い床で乾いた音を立て、二度、三度と跳ねて転がる。そして、自由になった両手を控えめな胸の前で組み、仁王立ちの姿勢をとる。
男は忌々しげに眉間に皺を寄せた。
人の家、それも寝床にゴミを捨てるなと一言文句を言いたくなったが、この先この常識外れの女と関わっていくにあたって、いちいち小言を言っていては際限がないと思い至り、深いため息とともに諦めた。
「ところで開発員、あの新聞紙はなんだ」
男は気まずさを誤魔化すように横向きに寝返りを打ち、キャスバルの立ち姿が視界に入らないようにした。
油を吸って茶色く変色した小汚い仕切り板が、男の視界のほとんどを埋め尽くす。すぐ目の前で、木目の隙間に染み込んだ古い油が、鈍く光っていた。
「それは、お前がなぜあそこまで龍鱗装甲にこだわったか聞いてもいい、ということだな?」
「……忘れてくれ」
「そういうことだ」
キャスバルが様々な工房から門前払いを受けながらも、なんとしてでもあの可憐さの権化を形にしたかった理由。男は、彼女がどうしてもそれを口に出せない、もしくは出したくない深い理由があるのだろうと勝手に踏んでいた。
思えば出会った初日、あれほどの苦労の末にこの辺境の工房にたどり着いたという事実がありながら、彼女は龍鱗装甲を形にしたいという強烈な訴えばかりを繰り返し、その情熱の源泉たる理由は一切語っていない事実がある。
ともあれ、男の基準から見てもキャスバルという人間は極めて無神経で異質であると評価しているが、それでも彼女の根底に悪性は感じられない。ここまで傍若無人に振る舞いながらも、相手に決定的な嫌悪感を抱かせないのは、いっそ天性の才能の域であった。
それとも、こんな無礼を容易く許せてしまう自分の方が特殊なのだろうか。
男は、汚れた仕切り板の木目をぼんやりと見つめながら、そんな自嘲的なことを思っていた。
「それより、前線にいなくていいのかよ。頼りにされてるんだろ?」
「……極秘だ。すまない」
「そうかい」
男は再び寝返りを打って仰向けになると、まだ痛む腹の筋肉を使って、ゆっくりと上体を起こした。
腕組みをしたままこちらを見下ろしているキャスバルと、静かに視線が交差する。
軍の内部事情や政治の思惑など、男にはこれっぽっちも興味がない。たまたま目の前のキャスバルを通して尋ねてみただけだ。言えない事情があるのなら、それ以上踏み込む気もなかった。
「あの新聞に書かれてるのは、全部本当のことなのか? 流石に嘘だろ、あれ」
男はあえて話題を変えた。
一度は新聞の話題を捨てた男だったが、流石に一面を飾っていたあの常軌を逸した活躍内容の信憑性については、作り手として純粋に気になっていたからだ。
「ほう、察しがいいな。当然、あれは嘘だ」
「だろうな。普通に、そう思うのが自然だ」
「敵将殺しは二十超え。親衛隊の記事も補助ではなく親衛隊本隊への入隊だ」
「……は?」
「とはいっても、親衛隊なんぞ御免被ったが」
男は間抜けな顔で、口をあんぐりと開けた。
あの仰々しい記事は、彼女の戦果を誇張したものではなく、むしろ事実を矮小化して世間に公表したものとでもいうのか。
大衆向けの嘘かと思っていた記事が、実は「真実があまりにも嘘くさすぎる」がゆえに軍が意図的にスケールダウンさせた事実であるという現実。
そして、その生きる伝説が今、汚い寝床の目の前で、こちらを平然と見下ろしている。
「それより礼参りもそうだが、別件でも開発員に話があった」
男の頭の中が混乱の極みにあることなど知ったことではないとばかりに、キャスバルはあくまでも自分のペースで用件を推し進めていく。
男はパンクしそうな頭を、左右に何度も強く振った。
まだ体内の奥底でくすぶっている破壊酒のアルコールが猛烈な不快感を主張してくるが、新しい情報を受け入れるために、無理やり心を切り替える必要があった。
「何人かに、貴様に装備を作ってもらうよう推奨しておいた。一人は天使隊に配属する予定のうるさい女。もう一人は名家出身の女。あと、軍団長のリトンにな」
だが、せっかく思考を切り替えたばかりの脳に、またしても致死量を超える新しい情報の暴力が叩き込まれる。
男は白旗を上げるように、再び硬い布団の上へと、バタリと横に倒れ込んだ。
軍団長などという、聞き流すにはあまりにも重すぎる単語も混じっていたが、破壊酒がもたらす極度の疲労感も手伝って、男は一旦、すべての思考を放棄することにした。
「……忙しくなるな」
「よろしく頼む」
それだけを言い残すと、キャスバルはもたれかかっていた冷蔵庫から肩を外し、足音もなく居住域から姿を消した。あの迷いのない足取りからして、恐らくそのまま工房からも立ち去るのだろう。
その引き際の速さは、まさに躊躇いなしであった。
男が倒れ込もうが特段慌てることもなく、伝えるべき用件はすべて伝えたからと、看病をする素振りすら見せない。
酒という名の手土産も渡した。依頼の予告も完了した。
残された男の口からは、流石に乾いた笑いしか出てこなかった。
「もう寝る」
体中を駆け巡る破壊酒の猛烈な酩酊感の助けもあり、男は目を閉じた瞬間に、深い意識の底へと落ちていった。
二日後の夕刻。
いつぞやの若造が言っていたように、国からの依頼品は極度に減っていた。
男の工房は、キャスバルのあの複雑な装甲を作り上げるためにあらゆる物資を消費し尽くし、すっかり空っぽになっている。男は何の作業をすることもできず、ただ無気力に、惰性のような時間を過ごしていた。
かろうじて、隣の工房の職人に頭を下げて不用材や端材を分けてもらい、それで適当なものを作って暇を潰してはいるが、それも限界がきている。
そんな手持ち無沙汰な時間の中、不意に工房の重い扉が開かれた。
姿を現したのは、透き通るような白い髪を腰のあたりまでゆったりと垂らした、洗練された美貌を持つ女だった。
背筋はすらりと高く伸び、身を屈めるようにして扉の高さに気を遣いながら入ってくるその立ち姿は、小柄で横幅のある男たちが多いこの区画においては、まさに巨人のようでもある。
しかし、その長身の体躯は無駄なく引き締められており、威圧感よりも優雅さが際立っている。
彼女が身に纏うのは、仕立ての良い純白のブラウスと、淡い茶色を上品に伸ばしたような色合いの、いかにも高級な生地で作られたロングスカートだった。
本来であれば、歩くたびにその重厚で滑らかな布地が優雅に波打ち、脚の動きに合わせて肌に心地よく触れながら美しく翻るはずの代物である。
しかし彼女は、この工房区画特有の油や鉄粉の汚れに、その上質な布が触れるのを徹底して防ぐためか、あらかじめスカートの裾を細かく手繰り寄せ、ヒラヒラと舞わないように、しっかりと結び上げていた。
本来の滑らかな布の動きや質感を封じてでも、一切の汚れから守るという確かな意志が、そこには表れている。それでもなお、布の重なりから覗くドレープの質感や光沢だけで、それがこの区画にはおよそ不釣り合いな一級品であることは、明白だった。
髪留めの意匠から、手に提げている小さな手荷物に至るまで、工房区画の薄汚れた空気には呼吸すら許されないほど、彼女の身に纏うすべてが、圧倒的な高級感に溢れ返っていた。
こんな場違いにもほどがある存在。一昨日キャスバルが言い残していった関係者の一人だろうか。恐らくは「名家出身の女」とやらだろうと、男は瞬時に推測を立てた。
「リスク、さんの工房でお間違いないでしょうか」
女は胸の前で上品に両手を結び、少し頭を下げて、柔らかな微笑みを浮かべた。しかし、その本名を呼ばれた男は、不快感を隠すことなく、眉間に深い皺を寄せた。
「その名前で呼ぶな」
「え……」
想定外の拒絶だったか、女はわずかに桜色の唇を開き、困惑したように小さく首を傾げた。
「では、なんとお呼びいたしましょう」
「開発員、とでも呼べ」
「そうですか。では、そのように」
女は、今度は先ほどよりも深く丁寧なお辞儀をすると、床に散らばる鉄屑や油の染みを的確な足取りで避けながら、男のいる受付台の正面まで歩み寄ってきた。裾を結んだスカートは揺れることもなく、その足運びだけが、埃の上を滑るように進んでいく。
「突然のご訪問、申し訳ございません。フロントの天使様の紹介で参りました、メリトリス・オーナーと申します。是非ともメリトリス、とお呼びください」
メリトリスと名乗った女は、手元の上品な小型の手荷物を少し持ち上げると、その中から探るそぶりも見せずに、迷うことなく一枚の紙を取り出した。恐らく、その手荷物の中身も彼女の身なりと同様に、一寸の狂いもなく完璧に整頓されているのだろう。
開発員の男は、無言でその紙を受け取った。
そこに記されていたのは、極めて短く、
『よろしく頼む』
とだけ書かれた走り書きだった。
誰宛てなのか、誰からの手紙なのかすら書かれていない、客観的に見れば、あまりにも無意味な紙切れだ。
開発員は呆れ果て、読んだそばからそれを、その辺の床へと無造作に放り投げた。
「で、何の用だ」
「はい。えっと……」
メリトリスは再び手荷物を持ち上げ、今度は中から別の紙を取り出した。
先ほどの適当なメモとは明らかに紙質が違い、分厚く頑丈な作りの封筒だった。そして、その表面には、流麗な飾り文字で『アーマイン』と堂々と記載されていた。
アーマイン。
それは、この広大な世界においてわずか二十一人しか存在しない特権階級の絶対者たる貴族の一人、『傲慢卿』の名であった。
名家出身などという、生易しい次元の話ではない。
開発員は、心の底からの嫌悪と恐怖がない交ぜになった、あからさまに嫌な顔をした。
貴族。
それは、この世に起こりうるあらゆる理不尽な現実を体現することを許された、歩く厄災そのものだ。
気まぐれに街をふらつき、目に留まった美人を攫っていく。この街が欲しいと一言呟けば、翌日にはその街が丸ごと彼らの私有地となる。
二千人もの妻を囲う『淫乱卿』や、口から出まかせで言った嘘が国家権力によってすべて現実に作り変えられる『虚言卿』などが有名か。
中にはまともな政務を行う貴族もいるとは聞くが、いずれにせよ「貴族に目をつけられる」という事態が一般市民にとって何を意味するのか、それは開発員も痛いほど実感していた。
何より、つい数年前までこの工房の隣の隣で店を出していた酒屋の娘は、区画でも評判の美人であったが、ある日突然、見事なまでに淫乱卿の妻の一人として連れ去られていったという、身近な事実がある。
この封筒の主である傲慢卿は、イカれた貴族たちの中ではまだ話の通じるまともな方だと評判ではあるが、それでも関わり合いになりたくない相手の筆頭であることに、変わりはない。
「アーマイン様持ちの一屋敷、そのメイドに過ぎませんが……よろしくお願い致します」
メリトリスは、汚れを防ぐために裾を結んだせいで本来の広がりを失っているスカートを、それでも優雅に両手でちょんとつまみ上げ、見事な淑女の礼を披露した。布地が制限されているにもかかわらず、その身のこなしには、一切の不自然さがなかった。
「装備開発希望者ってことでいいんだな?」
ともあれ、貴族が絡んでいる案件であるならば、絶対に深入りせずに、要求された用だけを最短で済ませて、一刻も早く追い出すに限る。開発員は感情を殺し、さっさと本題へと話を進めた。
「はい。フロントの天使様が言うには、開発員様はどんな要求も希望を叶えてくださると」
男は舌打ちしそうになるのを必死に堪え、嫌な顔を作るのを我慢した。その代わりに立ち上がり、メリトリスに対してあからさまに背を向けた。
とんでもない言い分だ。装備開発をなんだと思っているのか。それに、こんな底辺の廃れた工房に、貴族の専属メイドを汚れ仕事のために寄越すなど、あのキャスバルという女は、本当に頭のネジがどうかしている。
心の中でキャスバルへのありったけの悪態をつきながら、メリトリスに背を向けたまま、開発員はアーマインから託されたというその封筒を開いた。
美しく強固に糊付けされ、封蝋までされた手紙だったが、開発員は敬意など微塵も払わずに、上部を乱暴に引きちぎった。
中から出てきたのは、手のひらにすっぽりと収まるほどの厚紙だった。そして、そこには傲慢卿アーマイン本人の直筆による流麗な署名とともに、その下には、信じられない数字がはっきりと印字されていた。
「……は?」
開発員は、指先の力を失い、その厚紙をポトリと床に落としてしまった。
しかし、心臓が跳ね上がるのを感じながら、慌てて屈み込み、それを拾い直す。
そして、そこに刻まれた印字を、穴が開くほど、もう一度凝視した。
「……二十、金貨」
開発員の首が、物理的に飛んでいってしまいそうなほどの勢いで、ありえない角度に捻られた。
そして、恐怖と歓喜で小刻みに震える口元を隠そうともせず、背後のメリトリスの涼しげな目を、凝視した。
「装備開発には色々と入り用、とのことです。足りそうですか?」
足りるも何も……。
男の現在の所持金など、金貨どころか銀貨一枚すら存在しない。そもそも、この日雇いや下請けばかりの工房区画に住み着いている連中の中で、本物の金貨などというものを一度たりともその手に握ったことのある人間が、果たしているのだろうか。
どれほど腕が良く、好調に稼いでいる職人であっても、せいぜい持っていて銀貨三枚がいいところだ。それだけの蓄えがあれば、この貧民めいた工房区画の中では王様のように振る舞える。その銀貨を血を吐く思いで百枚集めて、ようやく金貨一枚に換算されるのだ。
「もし不足なら、遠慮なく申しつけるようにとのことです。主人アーマインは、一切の支援を惜しまない意向でございます」
開発員は、ニコニコと微笑むメリトリスの顔から、ひきつったまま、ゆっくりと視線を外した。
そして、膝の力が抜け、後ろにあるパイプ椅子の上へと、崩れ落ちるように座り込んだ。
金貨二十枚。
それは、これから先なに一つ仕事をせずとも、遊んで暮らして人生五周はできるであろう、途方もない大金だ。
これを受け取るということの、尋常ではない重み。
かといって、相手は絶対権力者である貴族の意向。こんな辺境の職人に、「受け取らない」などという身の程を知らない選択肢は、最初から存在しない。
「はは……」
男の口から、ひどく乾ききった虚ろな笑い声が、漏れ出ていた。
それは、正真正銘の諦めからくる笑いだった。




