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第三項 日差しにて


 まだ、太陽が天空の真上に座す正午頃合い。男は、自らの薄暗い工房の外へと足を踏み出していた。

 まともな太陽の光を全身に浴びたのは、一体いつぶりのことだろうか。男が思っていた以上に、その明かりは暴力的なまでに眩しく、彼は思わず油汚れの染み付いた腕を額にかざし、突き刺さるような光線をなんとか緩和させようと目を細めた。

 瞼の裏まで白く灼かれるようで、視界はしばらく滲んだまま、像を結ばない。


 そして、機材や廃棄物が所狭しと置かれ、重油で黒く変色した細い地面を、中心街へと続く道に沿ってゆっくりと歩を進めていく。踏みしめるたび、乾いた煤と油の混じった土が、靴底の裏で鈍い音を立てた。


 白昼堂々、まるで亡霊のようにフラフラと彷徨い歩く彼の姿を、工房区画の同業者たちは作業の手を止め、一様に怪訝な表情を浮かべて見送っていた。金槌の音が、彼の通り過ぎる一角だけ、まばらに途切れていく。


 五分ほど歩いたところで、同じ工業区画に店を構える、立派な白い髭を蓄えた老練な職人仲間が彼を見つけ、気さくに声をかけてきた。


「なんだめずらしい。槍でも降るのか」


 男は気怠げに足を止め、その白髭の男の顔を、鬱陶しそうに見やった。

 

 放っておいてくれ。


 全身からそう言いたげなオーラを放ち、男の背中はみるみるうちに丸く縮こまり、その双眸からは、先ほどまでの僅かな生気すらもがスッと消え失せた。


「......最悪だ。なんでお前なんぞに見つかるんだ」


「そういうなよダッチ。日差しを浴びるの、いいもんだ」


 ダッチ。それは、特に気心の知れた親しい友人や、義兄弟などの間柄でのみ使われる愛称である。白髭の男性がその名で呼ぶということは、彼がそれだけこの捻くれた男のことを少なからず親愛し、気にかけているという、何よりの証拠だった。


「お前と話をしに来たわけじゃない。じゃあな」


「おお、つれないねぇ」


 白髭の男の温かな態度の反面、男の態度はあくまでも冷淡で無愛想なものだった。

 彼はそのまま、面倒な絡みから逃れるようにして足早にその場を離れると、さらに歩を進め、とある商店の前で足を止めた。


「なんだい、修理屋。この時間にくるなんて珍しいじゃない」


「......どうも」


 その商店の店先には、幾度も洗濯されて薄汚れた白色のエプロンを身に纏い、顔に深い年輪のような皺を刻んだ、体躯の良い女性が立っていた。     


 男はこの店に顔を出す常連客ではあったが、太陽がまだ高く上っているような明るい時間帯にここを訪れるのは、およそ初めてと言っていいほどの珍事だった。


「なにしにきたんだい。風邪でも引いたのかい?」


「馬鹿いえ。新聞だよ新聞」


「......ちょっと、旦那!修理屋を医者に連れて行きな!」


「ばっ!何言ってんだ!」


 万年引きこもりのような生活をしている修理屋の男が、強い日差しが降り注ぐ中、わざわざ新聞などを買いに外へ出てくる。それは、男の偏屈な性格や日頃の生活態度をよく知る工業区画の住人たちからしてみれば、天変地異の前触れか、正気を失ったとしか思えないほどの「ありえない異常行動」そのものであった。


 店の奥へと向かって、両手を拡声器代わりに口元に当て、大声で旦那を呼ぼうとするおばさん。男は慌てて距離を詰め、その太い腕を強引に掴んで制止させる。


「もう、なんだってんだい」


 おばさんは、力強く掴まれた自分の腕と、男の焦った顔を交互に胡散臭そうに見比べながら、不満げに頬を膨らませた。


「それはこっちの言葉だ。新聞買いに来ただけの客を気狂い扱いすんな」


「まったく。冗談よ、冗談」


 男は忌々しげに口をへの字に曲げる。彼にとって、それは到底気分のいい冗談などではなかった。

男はおばさんの腕を解放すると、行き場を失ったその手を自身のボサボサの頭へとやり、照れ隠しのようにぽりぽりと掻きむしり始めた。


「過去の新聞も欲しいんだ。その......な」


真昼間に自ら進んで新聞を買いに来るという奇怪な行動に加え、さらに「過去の新聞も欲しい」という前代未聞の注文まで追加される。


この発言がどれほど面倒な反応を引き起こすか、最初から分かっていた男からすれば、その言葉を聞いて文字通り目を点にして固まったおばさんの心理状態も、痛いほどによく理解できた。


「......どうしちまったんだい」


 おばさんは、いよいよ冗談めかした態度を引っ込め、本気でこの男の頭の具合を心配していそうな、深刻な声色を出した。


 このままでは、また余計な問答で面倒を引き起こされる。

 男はそう直感し、いよいよ隠し立てを諦め、仕方なく腹を括って本心を口にした。


「......ったく、キャスバルだよ。キャスバルが載ってる新聞が欲しいんだ。あるだけな」


 消え入りそうなほどの小声だった。自分が何を求めているのかを正確に注文しなければ、目的の新聞は手に入らない。それは頭では十分に分かっている。

 しかし、だからといって、胸の内に渦巻く強烈な気恥ずかしさを消し去れるわけではない。


 よりにもよって自分が、あの小生意気なキャスバルの活躍が載った記事を欲し、それを工房に飾ろうなどとしていることを、一体誰に堂々と言えるだろうか。


「キャスバルちゃん?フロントの天使のことかい」


「ああそうだよ。はやくよこせ」


 男は押し寄せる気恥ずかしさに耐えきれず、苛立ちを誤魔化すように右足でトントンと地面を忙しなく叩き始めただけでなく、吐き捨てるような荒い口調になっていく。


 おばさんはそんな彼の不器用な姿を見て、わざとらしく「やれやれ」と声に出して深い溜息を吐いてみせると、店の奥に積まれた紙の山へと入っていった。


 そして、四つの日付の異なる新聞のまとまりを手に掴むと、再び男の前へと戻ってくる。


「ほら受け取りな。愛しのキャスバルちゃんの新聞」


「やめろ」


 男は、からかうおばさんの手からむしり取るようにして、その紙の束を素早く奪い取った。そして、作業ズボンの尻ポケットから無造作に小銭を掴み出すと、新聞を手渡して暇を持て余しているおばさんの広い手のひらの上へと、乱雑に叩きつけるように乗せる。


「はいちょうど。まいどー」


「ちょうどじゃねーだろ。ふざけやがって」


 男は、明らかに余分に払いすぎた釣り銭を取り戻そうとすることすら諦め、新聞の束を脇に抱え込んだまま踵を返し、今来た道を逃げるようにして足早に戻っていく。


 幸いなことに、帰りの道中では、誰からも声をかけられることはなかった。


 自分の根城である工房へと逃げ帰るように辿り着くと、彼は一目散に受付の台の前まで歩み寄り、その上に散乱していた工具や部品の数々を、腕を力任せに振るって全て床へと払い落とす。


 ガチャン、ガランと、ひどくけたたましく激しい金属音が、静かな工房の壁に幾重にも響き渡る。


 そして、まるで壊れ物を扱うかのように手に持っていた新聞の束を丁寧に広げ、日付順になるよう、ひとつずつ台の上に並べていった。

四紙すべて、その表紙にはあのキャスバルの顔が大きく刷り出されている。


 キャスバルがあの重厚な龍鱗装甲を身に纏い、この工房を去ってから、早いものでもう二十日という月日が流れていた。


 彼は記事の詳細を読み込むことはせず、大きな見出しの触りだけを、時系列順に並べた新聞の上へと、一枚また一枚と、視線で追っていった。


『フロントの天使、敵将を無傷の大殺戮!10人殺傷、8人捕獲。大金星、大躍進!!』


『フロントの天使、第254期代表として国王と謁見!親衛隊入りか!?』


『フロントの天使、親衛隊補助員に大抜擢!異例のスピード出世!』


『フロントの天使を隊長とする天使隊を発足!本人の意向!国王はこれを支持!!』


 見出しを横へと視線を滑らせるたびに、男の胸の奥で、心臓がドクン、ドクンと激しく跳ね上がるような高揚感と動揺が芽生える。行儀よく並べられた記事の数々は、あの小柄で無愛想なキャスバルという女が、戦場においてどれほど規格外で異端な存在であるかという事実を、冷酷なまでに彼へと突きつけていた。


 初めてこの薄汚れた工房に足を踏み入れた時は、常識も礼儀も知らない、ただの失礼な女だった。

 しかし、その真の姿は、国の歴史上でも類を見ないほどの、とてつもない逸材であったのだ。少なくとも、この新聞を見る限り。


 当然、新聞という媒体特有の、大衆の目を引くための大きな誇張が含まれているという線も、当然考えられる。

 戦時下において自軍が劣勢に立たされている状況であれば、一人の突出した英雄を偶像として祭り上げ、民心を煽るというプロパガンダの手法は、この国の長い歴史の中でも幾度となく繰り返されてきた常套手段でもある。


 だが、いくら情報の統制に長けた軍の上層部であっても、完全な捏造でここまで大々的な嘘を書かせることはない。過去の歴史から、民衆は「政府はまた我々を騙すのではないか」と常に疑いの目を持ち、学習しているからだ。その緊張状態の中で、すぐに見破られるような浅はかで愚かな嘘をつくはずがない。


「おいおい、まじかよ」


 男は散らかった台の上に両手をつき、深いため息をついた。あの生意気な女が、まさかたった二十日でこれほどの歴史的偉業をしでかすとは、夢にも思っていなかったのだ。


 並べられた新聞の一番端、一番古い日付の一枚を、震える手で取り上げる。

 傷一つ負うことなく、敵将を含めた10人もの猛者たちを一人で葬り去ったと、そのインクの滲んだ記事には、はっきりと書かれている。


 ありえない。


 一人の新兵にできることなど、到底事実であるはずがないのだ。


「邪魔をする」


 突然背後から聞こえた声に、男の肩がビクンと大きく跳ね上がった。


 何の足音も、前触れもなかった。背後で扉が開く、重く鈍い音が届いたかと思うと、すぐさま外の空気が工房の中へと流れ込んできた。工業区画特有の、少し重油の匂いが混じった、濁って汚い風だ。


 しかし、その無骨な風の直後に届いたのは、聞き覚えのある、芯のある柔らかな声だった。

 男は手に持っていた新聞を、驚きのあまりバサリと投げ捨て、全身の姿勢ごと弾かれたように後ろを振り返った。


「ずいぶん床が汚いな」


 そこに立っていたのは、紛れもなく記事の主であった。だが、彼女の装いは、あの銀色に輝く『龍鱗装甲』ではなかった。


 上半身には茶色い、厚手で丈夫そうな革で仕立てられたミニ丈のジャケットを羽織り、下半身には足首まですっぽりと覆い隠すほどの、長いスカートを着用している。


 その分厚い布地をたっぷりと使ったスカートの裾は、ここまでの旅の汚れを吸ったのか、すっかり泥や埃で汚れ切ってしまっているが、彼女自身はそんな汚れなど微塵も気にするそぶりを見せていない。


 男は、あまりの衝撃に、言葉を発することができなかった。


 開いた口から、無意識のうちに彼女の名前を、小さく呟いていたかもしれない。


 だが、仮にそうだとしても、その微かな声は、彼女の耳には届いていなかった。


 キャスバルは、呆然と立ち尽くす彼をよそに、先ほど男が台から乱暴に払い落とし、床に散乱している金属部品や工具の数々を器用によけながら、全く遠慮する様子もなく、男の元へと真っ直ぐに歩いてくる。


 そして、男の目の前まで来ると、台の上に綺麗に並べられた新聞を一瞥し、それから真横で固まっている男へと、鋭い視線を向けた。


「なんだ、わたしの新聞か」


 男は逃げるように受付の木板を跳ね上げ、そそくさと台の内側へと入り込むと、定位置である古びたパイプ椅子へと、逃げ込むように座り込んだ。

 すべては、痛いところを突かれた自分が、キャスバルのその視線から、少しでも逃れるためだった。


「礼をしに来た。少し付き合え」


 しかし、キャスバルは男のその挙動不審な態度に対して、一切の疑問や興味を持たないらしい。

彼女は一旦、男から意識を完全に離すと、台の上に並べられていた自分の新聞を、しわにならないよう、ひとつひとつ丁寧に拾い上げ始めていく。


 そして、台の上に十分な空間を作り出すと、彼女は驚くべきことに一切の躊躇いなく、ひらりと身軽に、その油汚れた台の上へと乗り上げたのだ。


「酒を買って来た。飲めるよな、開発員」


 キャスバルは、着ている革ジャケットの小さなポケットにごそごそと手を突っ込み、そこから一つの極小のガラス瓶を取り出した。


 男はその瓶の形状と、中に揺らめく液体の色を見て、瞬時にそれが何であるかを悟った。


 それは、国の軍上層部や一握りの特権階級の偉い人間しか口にすることができないとされる、幻の超高級品であった。通称、『破壊酒』。たった一滴舐めるだけで、市販に出回っている強い酒を一リットル一気飲みしたのと同等の、凄まじい酔いと刺激に襲われるとされる、致死性すら孕んだ危険極まりない代物だ。


 時の乙女であり、今や国中の世間の注目を一身に集める時の人であるキャスバルが、到底綺麗とは言い難い、鉄粉や機械油、埃に塗れた木製の台の上に、こともあろうに胡座をかいて座り込んでいる。そして、悪魔のような危険な酒が入った小瓶を片手に、パイプ椅子に縮こまって座る男を、上から見下ろしているのだ。


 そのあまりにも現実離れした光景の異質さに、男の中にあった緊張の糸がプツリと切れ、彼は耐えきれずに、思わず吹き出して笑ってしまった。


「お前、とんでもねぇな」


 台の上に胡座をかいたことで、彼女の長いスカートの生地が太ももに沿って引っ張られ、脚の間に不格好な空間が生まれていた。男は自然な動作で手を伸ばすと、そのキャスバルのスカートの裾を軽く掴んだ。

 指先に伝わる生地は、重厚に織られた厚みのある布でありながら、裏地は滑らかで肌触りが良く、無骨な見た目に反して、柔らかく落ちる質感を備えている。


 男は、彼女の胡座の間にできた不用意な空間を塞ぎ、露出を防ぐように、その重みのある生地の襞を、丁寧に整えてやった。


 キャスバルは、自身の衣服に触れる男の行動の意図を正確に察したのか、僅かに目元を緩めて、短く「すまない」と口にした。


「軍の女ってのは、みんなこうなのか?」


「しらん」


 男の気遣いがなければ、下手をすれば自分の下着が丸見えになっていたかもしれないというのに、そんなことすら、彼女にとっては心底どうでもいい些末な問題であるらしい。


 キャスバルは親指で器用に極小瓶の蓋を弾き開けると、ツンと鼻を突く強烈なアルコール臭を放つその飲み口を、男の鼻先へと躊躇いなく差し出した。


 破壊酒。


 裏社会の噂で聞いたことはあるが、当然ながら、こんな恐ろしい代物は、今まで一度たりとも飲んだことなどない。

下手をすれば、急性アルコール中毒で本当に死ぬことすらあると、まことしやかに囁かれている、文字通りの悪魔の酒だ。


「なぁキャスバル。この酒のこと、どれくらい知ってんだ」


「破壊酒だろう。試し飲みはしたが、大したことはない」


 涼しい顔でそう言い切るが、新聞の一面を飾るような常識外れの軍功を平然と上げてのける、この規格外の女・キャスバルの「大したことはない」という言葉など、男からすれば、世界で一番信用ならない戯言であった。


「どうした。早く飲め」


 有無を言わさぬ鋭い眼光で急かされ、男は逃げ道を失い、震える手で仕方なく、その冷たい極小瓶を受け取った。


 指先から伝わるのは、恐怖。命の危険すら感じる、ただの純粋な恐怖だ。


 しかし、自分よりも一回りも歳が離れた、10も年下の小娘にここまで堂々と煽られておいて、男として、いや一人の大人として、逃げ出して立つ面目などあろうか。


 悲しいかな、見栄っ張りな男の辞書に、「飲まない」という賢明な選択肢は、残されていなかった。


「......んく」


 意を決して、舐めるようにほんの一口だけ、喉に流し込む。

 本当に、たったの一口。数滴にも満たない量だ。だが、そのほんのわずかな一口が、とんでもない破壊力を持っていた。


「おげぇ!」


 食道を焼け焦がしながら落ちていった液体が、胃の粘膜に到達した瞬間、爆発したかのように胃袋の中で荒々しく暴れ回る、強烈な違和感。


 その鉛を飲んだかのような焼けるような激痛と違和感に、男はたまらず両手で、自分の腹を掻きむしるように強く押さえることしかできない。


 だが、その発作的な動作のせいで体のバランスを崩し、座っていたパイプ椅子から、無惨にも転げ落ちてしまう。

 汚れた床に情けなく倒れ込み、なおも燃えるような腹部を強く押さえつけながら、呻き声を上げて悶絶する男。


 キャスバルは、油に塗れた床の上で芋虫のように無様に這いずり回る男を見下ろし、呆れたように小さくため息を吐いた。そして、腰を浮かせると、軽快な身のこなしで高い台の上から飛び降り、苦しむ男のすぐ横に、ペタリと座り込んだ。


 そこは、鉄屑や油汚れがこびりついた地べたである。

 しかし、丈の長い厚手のスカートを履いた若い女は、自らの衣服の汚れなど全く意に介さず、汚い工房の床の上に、一切の躊躇いなく、その身を落ち着けたのだった。

 着地の際、彼女の周囲にふわりと広がった重みのあるスカートの生地が、工房の埃を吸い込みながらも、波打つような深い皺を作って静止した。


「情けない」


 床を這う男を見つめるキャスバルの口から紡がれたのは、ひどく冷たく、一切の同情も感情もこもっていない、残酷なまでに率直な一言であった。

 しかし、腹の激痛にのたうち回りながらも、男の耳に届いたその容赦のない、突き放したような響きは、男の胸の奥底を強烈に揺さぶる、圧倒的な熱量を持っていたのであった。


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