生贄は魔王の悩みを聞きます
ここ数日、ベルン様の魔力がしおれていた。見た目はいつもと同じなのに、魔力がでろんと落ち込んでいる。咲いていた花が一斉にぼとりと沼に落ちたかのようだった。
気になって、政務がお忙しいのですか、とか。面倒な案件が重なっているのでしょうか、とか。あるいは、また帝国が余計なことを言ってきましたか、とか。毎日少しずつ、聞いてみたけれど。そういうわけではないらしい。
そんな翌朝、私は一人で生贄の庭を散歩していた。朝の庭は清々しかった。やはり散歩に誘えばよかったかもしれない。と、ベルン様のことを考えたときだった。
何と、目の前にベルン様が現れた。
……でもね。いくら転移魔法でもね。いきなり目の前は驚くからね!
「おはようございます。今、ベルン様をお誘いすれば良かったと考えていたところなのです。
一緒に散歩していただけませんか?」
もちろんだ、とかそんな答えが返ってくるものと思ったのに、今日は違った。
魔族の王は私の目の前に立ったまま。私はその深紅の瞳にじっと見下ろされる。
ベルン様の手が私の髪に触れる。そっと、触れる。
「話があるのだ。」
陛下の魔力が揺れていた、地面を這うように。
「姫、俺は生涯貴女を大切にすると誓った。
生涯というのは、それなりに長い。その長い間姫を大切にするには、わだかまりは少ない方がよいと考えている。」
思わず顔が引きつった。……ベルン様、これ以上、私に何の黒歴史を話せというの?
「だが姫、俺は少々卑怯なことをしてしまった。どうしても、姫に話したくなかったのだ。」
ああ、なるほどと、ようやく私は分かった気がした。帝国の使者が、私が同席したあの場では話さなかったことがあり、ベルン様はそれで悩まれているのだと。
「あの文官、帝国の使者と謁見の際、姫が気にしていたのは、どうすれば魔国と帝国が争わずにすむか、それだけだった。
帝国に帰りたいなど、思っても考えてもいないようだった。」
私はうなずく。そのとおりだから。
「それならば、この情報を姫に話さなくても良いかと考えてしまった。
姫の気持ちを煩わせる必要などないと、俺が勝手に考えてしまった。
だが、これを聞いて姫がどう思うかは、姫にしか決められぬことだ。」
私は首をかしげる。ベルン様がこれほど悩むほどの、何があったというの?
「姫。」
とベルン様の手が私の髪に触れる。
「俺と婚約解消になった場合、帝国が姫に用意した新たな婚約は、パストゥールの王子だ。」
ああ……。
私は大きく息をつき、目を閉じた。
やはり、難しかったかと。
聞いた瞬間わかった。あれから五か月たって、もう一度私との婚約の話が出たということは、王子は結婚はもちろん、まだ婚約もしていないということ。
王子の愛する聖女がいまだ行方不明なのか、見つかったけれど再び婚約するのは難しかったのか、あるいは。
つまり、私のしたことに意味はなかった。
できれば王子に幸せになってほしかったけれど、結局私のしたことは何の意味もなかった。
王子にチャンスをあげたくて、王子に許されたくて、けれど私が魔王と婚約したことには意味がなかった。
でも不思議だわ。私のしたことがどれほど王子にとって意味はなくとも、私自身には意味があった。それに今、気づくとは。
私はここにきて良かった。あのまま無理矢理パストゥールの王子の婚約者でいるより、帝国の姫でいるより、私はここに来て良かった。
侍女たちと恋愛小説について感想を言い合い、女官長に婚礼衣装の相談をし、講師たちに魔国について聞き、料理人たちに新しいアイデアを試してもらう。貴族令嬢と工芸茶を楽しみ、貴族夫人に魔族の社交界について教えてもらう。こんな生活を私は得ることができた。
ベルン様と王城のいろんな部屋でティータイムを楽しみ、ダンスの練習に付き合ってもらい、一緒に庭を歩き、ベルン様の部屋でくつろいでおしゃべりをする。こんな毎日も、私は得ることができた。
何よりベルン様と共にいると、私に価値があるとかないとか、そんなことがどうでも良くなってしまうから。ただ私はここにいても良いと、そう思えるから。
私は魔国に来て、良かった。
「姫はまだ、パストゥールの王子が恋しいか?」
それはベルン様からの静かな問いかけだった。
私は、何と答えたものか迷ってしまった。私が魔国に来た時、恋心の残骸を抱えていた。魔国で過ごす間にそれは、過去のことになった。
いつの間にか、私は新たな恋をしてしまった。
見上げれば、ベルン様が私を見つめていた。
「姫にとって俺は、政略結婚の相手でしかない。それでも、俺のそばに来てほしかった。
姫が他の男を想っているなど焼け付くような嫉妬を感じるが、それでも姫にはここに、俺のそばにいてほしい。」
それは、ベルン様の気持ちがそのまま伝わってくるような言葉で。私も、ベルン様の隣にいたいと、そう答えたくなって……。あれ?




