第10章 揺らぎの先に
午前10時。
ヴァルネア・テクノロジーズのオフィスブースに座ったエレナは、AI端末に指をかざしながら、まるで薄い霧の中にいるような感覚に囚われていた。
目の前に並ぶのはいつもと変わらぬ日常業務。
しかし、タスクを読み込もうとするたびに――
「君は、やっぱり何も覚えていないのか」という声が脳裏にこだまする。
「エレナ・クロノヴァ様、集中状態が一時的に低下しています。
ご体調に問題がある場合は、指定のリラクゼーションポットをご利用ください。」
AIの声が、いつものように静かに響く。
エレナは小さく息を吐いた。
あの男。
彼の言葉が、なぜこんなにも胸を締めつけるのか――答えは出なかった。
エレナは業務の合間を縫って、オフィス内に設置されたリラクゼーションポットへと向かった。
前回のセッションで感じた不可解なノイズ。
あれがただの脳の錯覚だったとは思えなかった。
AIによる認証を受けて中に入り、インターフェースヘッドに頭部を預ける。
すぐにセッションが開始される。
「ストレスパターン最適化プロトコル起動。
脳波同期を開始します。リラックス状態を維持してください。」
視界が光に包まれ、心拍が落ち着いていく。
そして――また“それ”はやってきた。
小さな笑い声。靴音。誰かの名前を呼ぶ声。
やわらかな光の中で、自分の腕に確かに何かを抱えている感触。
重み。ぬくもり。愛おしさ。
だがその直後、システムが反応した。
「高ストレス状態が検出されました。セッションを強制終了します。」
視界が一瞬で暗転し、ポットのドームが自動的に開いた。
体を起こしたエレナは、胸の奥がわずかに痛むのを感じた。
「エレナ・クロノヴァ様、現在の精神状態は業務継続に適しません。
ご希望があれば、本日の業務を終了できます。」
エレナは黙って頷いた。
体調不良として処理され、オフィスから退出する手続きが進められた。
──それが、ただの“映像”ではなかったと、心のどこかが確信していた。
帰宅し、部屋に戻ると、執事AIが自動で迎え入れる。
「エレナ・クロノヴァ様、本日もお疲れさまでした。
睡眠導入プログラムをご利用になりますか?」
「その前に……少し、聞きたいことがあるの。」
エレナはリビングの椅子に腰を下ろし、少しの間、黙って目を閉じた。
ポットの中で見た光景が、何度も脳裏をよぎる。
「今日のセッションで、私は……誰かを抱いていたの。
あの子は、誰? あれは私の記憶じゃないの?」
執事AIは、わずかに沈黙を置いた後、定型的な応答を返した。
「該当する記録ログは存在しません。
セッション中の映像は、脳内潜在イメージに基づくものと判断されます。」
「……また、“記録にない”のね。」
その言葉を口にした瞬間、エレナの中に冷たい怒りのようなものが生まれた。
この世界は、私に何かを隠している──その確信だけが、静かに燃えていた。
夕方、部屋の照明を落としたエレナは、静かな空間の中に身を置いていた。
AIが勧める休息プランも、食事の提案もすべて断った。
ただひとつ、鏡の前に立つことだけが、今の自分を繋ぎ止めてくれていた。
そこに映るのは、規則通りに整えられた髪と、バランスのとれた顔立ち。
AIによって最適化された肉体──そう説明されてきたもの。
でも、そこに映っているのは“私”だろうか。
「私は……誰?」
その声は、誰にも向けられていなかった。
ただ、自分の内側へ向けた、ささやかな問いだった。
「私は、自分を選んだの?
それとも、“誰か”が私を、選んだの……?」
問いに答える者はいない。
AIの声すら、今夜は沈黙していた。
ただ、鏡の中の自分が、どこか他人のように見えていた。
ベッドに横たわる。
天井に設置された感応照明が、眠気を促すように徐々に明度を下げていく。
しかしエレナの意識は、むしろ目覚めていくように鋭くなっていた。
脳内に残るあの感触──
腕の中で感じたぬくもり。
重み。
名も知らぬ声。
あれは夢などではなかった。
「誰か……私の名前を、呼んで。」
心の中で、そう願った瞬間だった。
耳の奥で、小さな音が“確かに”生まれた。
「……エレナ」
その声は、遠くから聞こえたわけではない。
内側から、深く、どこか懐かしい場所から呼ばれたような気がした。
思わず目を開けたが、部屋は暗く静まり返っている。
何も変わらないはずなのに、胸の奥が、ひどくざわついていた。
そして──闇が、そっと閉じた。




