第9章 あなたに届くように
翌日の昼。
オフィスを出て向かった食堂は、いつもと同じ空気に包まれていた。
無機質な照明、機械のように整列した席、人々の声。
それらはただ情報のように流れていく。
エレナは食事を取ることを選ばず、カフェエリアの隅に立ったままメニューを眺めていた。
昨夜、端末に残っていたファイル──E.C.0007-R。
その名が、思考の隅に棘のように引っかかっていた。
ふと、視界の端に映った。
昨日、声をかけてきた男だった。
食堂の隅の同じ席で、変わらず静かに食事をしていた。
エレナは、またこの場所で彼に出会ったことが偶然ではないような気がしていた。
気づけば歩み寄っていた。
「……」
言葉を探していたのは、エレナの方だった。
しかし先に口を開いたのは、男だった。
「君は──やっぱり、何も覚えていないのか。」
静かに、しかし深く沈んだ声だった。
それは問いではなく、諦めの混じった確認のようだった。
「……何のこと? 私は、あなたを──」
男は立ち上がり、エレナの方をはっきりと見た。
その視線には、怒りも、悲しみも、ただひとつの想いだけが浮かんでいた。
「心はまだ君の中にあるはずだ。
……それを信じて、ここまで来た。」
そう言い残し、男は手にしていたデータ端末をエレナのテーブルに置こうとする。
だが、エレナの端末が警告を発し、セキュリティの光が一瞬走った。
「このデバイスは、未登録の外部ノードと接続されています。アクセスは制限されています。」
男は端末を引いた。
その動作に一切の怒りはなく、ただ淡々とした絶望がにじんでいた。
「……やっぱり、届かないか。」
エレナは何も言えなかった。
ただ、彼の背中を見送ることしかできなかった。
その背中が見えなくなった瞬間、頭の奥で、誰かの泣き声が一瞬だけフラッシュした。
なぜ泣いているのか。
誰の声なのか。
どうして、自分の胸がこんなにも締めつけられるのか。
答えはなかった。
しかし、何かが確かに揺れていた。




