第12章 脈打つ違和感
その朝も、エレナはAIの起床アナウンスより先に目覚めていた。
目を開いた瞬間、胸の奥で小さな違和感が脈打っている。
夢の名残とも、記憶のさざ波ともつかぬその感覚は、ここ最近、毎朝のように続いていた。
「おはよう。」
「おはようございます、エレナ・クロノヴァ様。
本日の体調はおおむね安定。ただし、睡眠中の脳波および心拍に微細な乱れが検出されました。
気温は24度。昨日同様、初夏を思わせる暖かな陽気です。
おすすめの装いは、通気性の良いワンピースとライトジャケット。
朝食には、昨晩の血糖変動に配慮し、低GIベリーとヨーグルトをご用意しております。」
「また乱れてたの?……夢、見たの。」
エレナはゆっくりと身体を起こしながら、言葉を呟いた。
まるで、自分に言い聞かせるように。
通勤中、ユーニアスの街並みはいつも通りの静けさに包まれていた。
自動制御された歩道、整った植栽、無音のモビリティ。
公園の前を通りかかると、仮想育成プログラムによる親子体験の映像が目に入る。
モニターの中で、仮想の母と子が手を取り合って笑っていた。
その光景を見た瞬間、エレナの心がざわついた。
胸の奥に浮かんだ、あの名前。
「……ノア……」
思わず呟いたその名前が、自分のものではないように思えた。
しかし、口にした瞬間、懐かしさと痛みが同時に押し寄せてきた。
それが誰なのかも、なぜ知っているのかも分からない。
ただ、確かに“何か”が、自分の中で目を覚まそうとしていた。
オフィスに到着し、エレナはいつものように端末にログインした。
与えられたタスクを淡々と処理しながらも、頭の片隅ではずっと“ノア”という名前が離れなかった。
ふと、画面が一瞬だけノイズを帯びた。
端末の表示が揺らぎ、不可解な文字列が浮かび上がった。
「M.T.H-R.01_∆†」
……一秒にも満たない表示。
すぐに画面は元に戻った。
AIは「一時的な同期エラーです。影響はありません」と説明したが──
エレナには分かっていた。
何かが、自分の中に入り込んでいる。
それは、夢や記憶とはまったく異なる“現実の異物”だった。
昼休みになり、食堂で昼食を取っていたエレナは、静かな席でスープに口をつけていた。
ふと、通路側に目をやると、また彼の姿があった。
名札もつけておらず、作業者とも職員とも判別しにくい服装。
しかし、その男は毎日のようにこの時間に現れる。
声を荒げるでもなく、誰かと会話することもない。
ただ静かに、一定の場所に腰を下ろし、時折こちらを見ているような気配だけが残る。
その存在に理由はない。
なのに、心だけが揺れる。
エレナは、彼の姿を見るたびに胸がざわつくのを止められなかった。
(この人……なぜ、こんなにも気になるの?)
視線が交差するたび、体の奥で何かが反応していた。
名前も思い出せない、けれど決して無関係ではない何かが、確かにそこにあると感じた。
夜。
静寂に包まれた寝室でエレナはベッドに身を沈め、目を閉じた。
その瞬間──
視界の奥に、ノイズが走った。
ザザッという音。
フラッシュのような閃光。
そして──微かに滲む、誰かの声。
小さな手。
柔らかな布団の感触。
朝の光。
そして、あの言葉──
「……ママ、起きて!」
心臓が跳ねた。
その声が、外部からのものではなく、自分の内部から響いていたことに、エレナは気づいた。
そしてその瞬間、ひとつの想いが胸を貫いた。
「……私、誰かに……呼ばれてる……?」
しかし、その“誰か”が誰なのかは、まだ思い出せなかった。
ただ、確実に“それ”が自分の中で目覚め始めているのを感じていた。




