36.【明日の音】が聞こえたら、さよならをしよう
「ヴィクトリア! ヴィクトリア、しっかりしろ!」
誰かに体を揺さぶられて、意識が微かに戻ってきた。懐かしい匂いは消え、リアリティの伴う血生臭さが鼻腔を支配する。
「ヴィクトリア!!!」
その叫びで完全に意識が戻ってきた。血だらけの明日音がヴィクトリアの前で処置をしてくれていたのだ。右脇腹には止血用のテープが巻かれており、滲んだ血の上からガーゼが当てられていた。
右胸……心臓を貫かれた明日音のほうが重傷のはずなのに元気そうだ。しかしさすがに出血量がひどいのか、肌は血色を失った灰色になっており、手が震えている。
ああ、そうか、明日音はゾンビだもんね。
ヴィクトリアは左腕を伸ばして、明日音の頬を撫でて言った。
「お腹、空いたでしょ」
「そんなことッ!」
そうは言うが、明日音の口元は開きっぱなしで、口の中で溢れた涎がボトボトと地面に落ち続けている。相当、飢えているようだ。そりゃそうだ。
こちらの世界に来て人を食べたこともなく、非常食だけで我慢し、なおかつ体の一部は欠損し出血だってひどい。今までよく我慢できたほうだ、とヴィクトリアは思った。
「あたしを、食べなよ」
「なにを言って……」
「左半身はまだ人間だから。きっと美味しいわよ」
「ふざけるんじゃない!」
振り切るように明日音は首を横に振って、ヴィクトリアの胸ぐらを掴んで叫んだ。
「君はまだ死んじゃいないんだ、諦めるな!」
「……あたしだって諦めたくない。これからも明日音と一緒に生きてたい」
「だったら!」
「けどね」
ヴィクトリアは自分の右腕に視線を向ける。彼女の右腕は肩口まで灰色に染まり切っていた。右脇腹の触手の刺し傷からも灰色は広がっており、全身に回るのも時間の問題だ。既に右半身の感覚はない。金色の右眼も白く濁り始めている。
「ここで考えるべきは、どちらかが生き残ること。生き残って……皆を助けて」
「それなら君が!」
「あたしじゃジークフリードには勝てない。他の騎士の人たちだってそう」
明日音の手にそっと触れて、その目を真っすぐ見つめて言った。
「攻撃魔法を無効化できるあんただけが、奴を倒せる」
本当なら明日音一人に背負わせたくない。だが今、想いを託せるのは彼女だけだった。
「ヴィクトリア……嫌だ。私は、私は……」
明日音はただ震えたまま、瞳から溢れ出す涙を止めることもせず、ただ途切れ途切れの言葉を口元から漏らしていた。
そんな震える手をそっと胸元に受け入れて、弱まっていく自分の鼓動の音を聴かせて、ヴィクトリアは静かに答えた。
「空っぽの人間が涙なんか流さないわよ」
「それでも、君がいないと私は駄目なんだ……だから……」
「……あたしもそうだったよ」
ヴィクトリアはあの時の自分と明日音を重ねた。エリーナを失ったとき、彼女がいないと自分という存在が崩壊してしまう絶望感が胸の中に広がっていた。それと同じなのだろう。
「あたしさ……。あんたと出会う前、大切な後輩を失ったの。胸の中にぽっかりと穴が開いて、生きる理由も見失いかけていた。でもあたしが挫けそうなとき、あの子が背中を押してくれたの。人を救うと誓ったときも、デカブツと対峙して回復魔法を使ったときも、あの子があたしの中で生きていたからやれたことなの。だからね」
虚ろになってきた意識のなかで、ヴィクトリアは言葉を紡ぎ続ける。少しでも明日音に自分の想いが伝わるようにと。喉の奥から声を絞り出す。
「大丈夫よ。あたしも明日音の中で生き続けるから」
「ヴィクトリア……」
「たまにはあたしに背中を預けなさい」
ようやく言えたわね、とヴィクトリアは笑みを浮かべる。
体の感覚が無くなってきた。口はもう動かず、一言も話せなくなってきた。血反吐が喉の奥からこみあげてくる。右半身全体に灰色が広がっていく。もう時間がない。最後の力を振り絞って、ヴィクトリアは左腕を明日音に向けた。
「た、べて……」
ごめん、明日音。こんな辛いことをさせてしまって。
「あ、あぁあぁあぁあぁぁッ!」
明日音は戸惑いを振り切れず、ただ慟哭していた。
あたしのワガママに付き合ってくれてありがとう。
最期まで付き合わせてしまって、ごめんね。
あんたは最高の相棒だったよ。
そしてヴィクトリアの意識は完全に途切れ、思考が暗転した。
【 記憶 4 】
ショッピングモールでの生活も半年が過ぎた。倉庫に簡易的な自室として改造していた私は、自分の妻をベッドの上に寝かせて、その手を握り締めて言った。
「ここなら自警団の奴らに文句を言われることもない」
「ありがとう」
妻は黒曜石のように美しい瞳で見つめ返した。艶やかな黒髪は腰まで伸びている。白磁のような肌は弱々しく、長いサバイバル生活で体はやせ細っていた。左腕に巻かれた包帯の隙間から灰色が微かに見えていたが、私は目を逸らす。
「……この子はなにも悪くない」
「うん……」
出産を間近に控えた妻のお腹は大きくなって、手を当てれば鼓動が伝わってくる。命の感触がした。
「なぁ、名前。決めたんだって?」
「明日の音と書いて、明日音」
妻はメモ帳を取り出し、そこに書かれた子供の名前を私に見せてきた。
「明日音、か。どういう意味で付けたんだ?」
「私たちの世界は真っ暗で、明日さえも見えない日々が続いている。ここにいる皆がそう思っている。だからこそ」
妻は自分のお腹に手を当てて、
「この子が明日の音となって、この真っ暗な世界に響いて欲しい」
音ならどんな暗闇でも伝わるじゃない? と妻は笑みを浮かべてみせた。
「明日の音―――それが皆の希望になるってことか」
「背負わせすぎかな……?」
「いや、きっと」
私は妻の手を握り締めて、倉庫の窓の隙間から差し込む月の光に意識を飛翔させる。
「響いてくれるよ、この鼓動は。誰かの暗闇の中で」




