30.どうせ死んでいるのだから、死んだってかまわない
ミカエルは哀れむように、明日音に向ける眼差しは優しく、口を開いた。
「ああ、悲しまないでくれたまえ、明日音くん。よく考えろ……君の記憶は全て他人のもので、君自身は空っぽの存在。だからこそ〝器〟になれるとは思わないのか? 神にも等しい存在の知識と経験を引き継いだ、超常の存在になりたくはないのか?」
空っぽの存在。
ゾンビとしての記憶は無機質で本能的で、血生臭いものばかりなのだろう。だから今の明日音を構成するのは全て他人の記憶だ。男であり、女であり、青年であり、少女であり、中年男性であり、老婆であり、その誰でもない。
まともに考えれば正気を失ってしまいそうなミカエルの言葉だが、今の明日音はそんなこと〝どうだってよかった〟。
「……もうやめてくれ」
明日音は小さくそう呟いた。
元より自分の出生の秘密に葛藤するつもりはなかった。ヴィクトリアを守ること。それだけを考えてチャンスを伺ってきた。そして今、ミカエルは明日音に真実を告げた。自分のアイデンティティが崩壊しかねないほどものだ。
だからこそ、耳を塞ぐような動作をしても「もうこれ以上聴きたくない」という意思表示にしか見えないだろう。
チャンスは一度きり、しくじることは許されない。
「おいおい、君のような変異体は他に例がない。今さら……」
「やめろと言っている!!!」
覚悟を決めた明日音は、両耳を塞いでいた手に力を込める。そして両手を思いっきり両耳に打ち付けた。平手が打ち付けられた耳、その奥の鼓膜が衝撃によって破れた。血の糸が明日音の両耳から吹き出すも、その瞳はミカエルを睨みつけている。
「……なんてな。端末の仕様を話してくれたのは素直に助かったぞ。礼を言う」
「……ッ!」
明日音の葛藤以外の意思を感じ取ったミカエルは、即座に端末を彼女に向けて操作する。電子音が鳴り響く、が明日音の聴覚はそれを認識しなかった。当たり前だ。鼓膜が破れていては音を認識できない。
音でゾンビを操作しているのなら、音を認識できなくなればいいだけだ。
明日音はミカエルに向かって駆け出す。同時に、腰に隠し持っていたダガーナイフを右手に持って懐へと潜り込む。一瞬の出来事、もちろんミカエルは反応すらできなかった。
「死ね」
それだけ告げて、明日音はミカエルの腹部にダガーナイフの刃を突き刺した。
組みついてヴィクトリアを解放するように交渉しても良かったかもしれない。だが、この男は生かしておくべきではない、そう明日音は判断した。非人道的な実験を続ける以上、さらなる厄介事を引き起こしかねない。
「ぐほっ……やるねぇ……」
ミカエルの吐いた血が明日音の右肩に落ちていく。少しずつ光を失っていく彼の瞳に視線を合わせることなく、刃をより深くまで刺し込む。そして手首を捻って確実に内臓を損傷させたのち、傷口を広げるように荒っぽく刃を引き抜いた。
人間相手ならこれで確実に死ぬだろう。
「……はぁっ……はぁっ……はぁっ」
力を失いもたれかかってきたミカエルの体を跳ね飛ばすと、明日音は血まみれのダガーナイフをスカートの中に戻す。ダガーナイフはスカートと下着の間にある専用のホルダーに収まり、セーラー服の中に隠れていく。
「あとはヴィクトリアを助けるだけだな」
大理石の床の上に仰向けに倒れているミカエルを見下ろして、明日音は言った。彼が何者であろうと、ヴィクトリアを守るうえで障害になる存在なのは確実だ。排除する以外に選択肢はないし、彼について考えるべきこともない。
自分の出自を知っていた、その程度の男だ。
自分なんてもうどうでもいい。
ヴィクトリアさえ守れれば、それで。
「哀れだな」
それがミカエルに向けて吐いた言葉なのか、自分に突き刺した皮肉なのか。明日音自身、よく分からなかった。
とにかく、とミカエルの死体に背を向けて、ヴィクトリアたちが囚われている船舶のほうへと踏み出したとき、
「……いやァ、見事だ」
死体が拍手を始めた。明日音は気配で後ろの動きを感じ取ると、振り返る。
「自分の鼓膜を破ることで音を認識できなくし、しかもごく自然な動作でそれを一瞬で行う。やはり君は素晴らしい、エクセレンッ……!」
ミカエルは起き上がり、血が滲んだ腹部に手を当てて言った。袖口に仕込んでいた注射器を地面に落として、よろけつつも明日音を見据える。
「Zウィルスの細胞再生能力のみを抽出した活性剤……ファンタジーのような異世界らしくポーションとでも命名しようか」
「こいつ、ゾンビか……ッ!?」
もちろん鼓膜が破れている明日音には、ミカエルの言葉は聞こえていない。だからこそ、口を大きく開いて勝ち誇った笑みを浮かべている彼が、心底不気味に思えた。
「今はそんなことどうでもいい……もう一度殺すまで!」
ダガーナイフを取り出して、明日音は前に構える。いずれにせよミカエルが手負いであることに違いはない。身体能力も強化されているようには見えず、今の明日音で十分制圧できる対象のはずだった。
「うーん、それは避けたいね。僕だって死ぬのは怖いんだよ」
「潰す! 頭部を! 確実に!」
明日音は駆け出した。
最短で、最速で、最高効率でミカエルを確実に殺せるように。地面を蹴りつけ、疾駆する。
『魔紋展開―――』
後方から激しい熱を感じた。例の魔法を使える変異体、ジークフリードとかいう奴だろう。しかし明日音は気にせずミカエルのほうへと向かっていく。
攻撃系魔法は明日音には通用しない。そう、ゾンビだから。
『炎の攻撃魔法【ショックフレア】』
熱風による鋭い衝撃波が明日音の背中に襲いかかるが、彼女に触れるやいなや消滅していく。やはり攻撃魔法は通用しない。
確信した明日音だったが、その直後、左脇腹に衝撃を感じる。拳大の飛礫が明日音の左脇腹にめり込んでいた。セーラー服の内側から滲む血、肉の内側から骨が折れる音が鈍く響いた。
(……魔法による攻撃じゃない、これは!?)
飛礫を受けて明日音の体は吹っ飛んで、大理石の地面を転がっていく。柱に背中を打ち付け、朦朧とする意識のなかなんとか起き上がり状況を把握しようとする。
明日音が飛礫をくらったすぐ横の地面が大きく抉れていた。ジークフリードの撃った魔法によるものだろう。
「なるほど……随分と面倒なやり方をするじゃないか」
ジークフリードが狙ったのは明日音ではない、大理石の地面だ。それを魔法で粉砕することで吹き飛んだ飛礫で、明日音を攻撃した。
明日音は魔法に関しては詳しくない。が、銃器で例えるなら跳弾で目標を撃ち抜いたようなものだと推測はできた。相当な手練、いや才能だ。才能を持った上で血反吐を撒き散らし続けるような修練を継続した結果、習得した凄技……それをゾンビになった今でも身につけているということか。
左脇腹の簡易的な止血を行う明日音に対し、ジークフリードは追撃を加える素振りすら見せず、悠然と語り始める。
「……魔法を、使っテイる、とき、だケ、俺は俺に戻れル。最強の騎士デアり、英雄デアる自分こソガ、俺」
ジークフリードの声は濁っており、言葉遣いもたどたどしいものであった。
「称賛シロ、俺、を……」
「……なに言ってるか聴こえないけど、嬉しそうでなによりだ、クソッタレ」
ヴィクトリアの口調が移ったかと小さく吐き出すと、明日音は駆け出した。
(待っていろ、ヴィクトリア! 今こいつらを倒して、君を助けに向かう!)
たとえ誰が敵であろうと、明日音にとっては殺すべきゾンビでしかなかった。空っぽの明日音に残された、たった一つのやるべきこと。それが戦いだった。
『魔紋展開―――炎の攻撃魔法【ブラストリィ】 魔紋展開―――氷の攻撃魔法【フロストエッジ】 合体―――攻撃魔法【爆発的な氷刃の拡散】』
ジークフリードの周囲に炎を纏った氷のギロチン刃が出現し、勢いよく放たれていく。その全てが明日音のすぐ横の地面や、柱に敢えて炸裂し、飛礫を明日音に打ち込んでいった。
「私はッ……!」
彼女だけは、どんな記憶にもない。この世界で出会ったかけがえのない存在だ。
「どうなってもいい……ッ! ただ!」
明日音は飛礫をダガーナイフで弾きつつ、回避行動に移るも、飛礫の数が多すぎて対処できずにいくつかを受けてしまう。骨が折れ、皮膚が裂け、血飛沫が舞い散る。
空っぽの自分の中に僅かに残った、純粋な想い。
そうだ、
私は死んでも、
君だけは生きてくれ。
「ヴィクトリア! 君だけは絶対に守り抜く!」
相討ちにまで持っていければいい。
ジークフリードを殺し切るまで死ななければいい。
そう思って傷だらけの体で駆けるも、そんな明日音の体に巨大な影が落ちていく。ジークフリードの魔法は明日音に飛礫を打ち込むだけではなく、近くの柱を倒壊させることもしていたのだ。
前しか向いていない明日音はそれに気づけない。
落ちていく影に気づいたとき、明日音はようやく倒れてくる柱を避けようとした。が、前に傾いた体は急な方向転換は応じなかった。来たるべき死を覚悟する時間しか、明日音には与えられなかったのだ。
死? いや、生まれた時点でゾンビだった自分にそんなものはないな……そう明日音は自嘲した。




