第8話 空の上の城
「……わかったわ。そこまで言うなら、一度離れてみましょう」
恵美が静かに、しかし決然と言い放ったその言葉が、別居の決定打となった。
蓮見は、タワーマンションの契約書を握りしめたまま、言葉を失った。自分としては「最高の贈り物」を提示したつもりだった。だが彼女にとっては、それは自分たちの思い出を焼き払うための松明にしか見えなかったのだ。
「俺は、お前のために……」
「私のために、これ以上私を汚さないで」
恵美は淡々と荷物をまとめ始めた。彼女が持っていくのは、古びた包丁と、長年使い込んだエプロン、そして二人の開店当時の写真だけだった。
「私はこの店に残るわ。あなたが捨てようとしている『蓮見餃子』の暖簾を、一人で守る。あなたは、その空の上の城で、新しい自分を完成させればいい」
こうして、二人の生活は完全に引き裂かれた。
蓮見は一人、静まり返ったタワーマンションの最上階へと移り住んだ。
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そんな蓮見の心の隙間に、一条は滑り込むように入ってきた。
彼女は、恵美が出ていったことを聞くと、一瞬だけ痛ましそうな表情を見せた。
「奥様、残念ですね。……先生の歩むスピードが速すぎて、ついていけなかったのかもしれません」
口では同情を装いながら、彼女の目は決して笑っていなかった。彼女にとって、恵美という「過去の重石」が取れたことは、蓮見を完全にコントロールするための好機でしかなかった。
「先生。マンションに相応しい、新しい『足』も必要だと思いませんか? 一流の男には、その魂を体現する車が必要です」
一条が差し出したのは、イタリアの情熱を象徴するブランド、マセラティのSUVのカタログだった。
「国産の堅実な車もいいですが、今の先生には、この咆哮のようなエンジン音と、洗練された色気が似合います。これが、今のあなたの『身の丈』ですよ」
身の丈。その甘美な言葉に、蓮見は抗えなかった。
数日後、彼のマンションの地下駐車場には、鈍い光を放つマセラティが鎮座していた。その圧倒的な存在感は、彼が路地裏の住人ではなく、選ばれた強者であることを証明しているようだった。
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その一方で、セントラルキッチンの現場では、不穏な空気が漂い始めていた。
一条の指示により、コスト削減と称して、データの改ざんや不適切な原材料の混入が常態化しつつあったのだ。
「一条さん。この品質管理データ、明らかに数値が操作されています。これでは消費者を欺くことになります」
現場で岡島が、いつになく強い口調で一条を問い詰めた。
一条は、冷たい瞳で岡島を見つめ、耳元で囁いた。
「岡島さん。あなたは現場を守ればいいの。……不測の事態が起きた時、最後に責任を取る覚悟がある人間だけが、このプロジェクトを回せるのよ」
彼女はすでに、何かあった時の「生贄」を岡島に定めていた。
岡島は、彼女の冷徹な美しさに、背筋が凍るような戦慄を覚えた。しかし、彼が彼女に向ける視線には、嫌悪と同時に、抗いがたい思慕の情が混じっていた。
『一条さん。あなたはどこまで堕ちるつもりだ……』
岡島は、手元の極秘ノートに、改ざんの証拠となる生の数値を書き留めた。
彼はまだ、それを表に出さない。
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「先生、見てください。これが『蓮見餃子』の新しい翼ですよ」
一条が監修室のモニターに映し出したのは、全国の主要都市、駅前、住宅街の片隅に次々と設置されていく「無人販売機」のマップだった。二十四時間、人件費もかけず、冷凍された「嘘の味」が飛ぶように売れていく。
かつて蓮見が「ひまわり食堂」で教えたような、焼き方のコツを伝える必要さえない。客はただ金を入れ、箱を取り出すだけだ。
「……すごいな。寝ている間にも、金が積み上がっていく」
タワーマンションの自室で、蓮見はマセラティの鍵を弄びながら、手元のタブレットに表示されるリアルタイムの売上表を眺めた。
岡島が指摘したデータの不備も、恵美が嘆いた味の劣化も、この圧倒的な「数字」の前では、取るに足らない雑音にしか聞こえなかった。
「結局、世の中は『正しさ』じゃなく『便利さ』を求めているんだ」
蓮見はそう確信し、マセラティのアクセルを深く踏み込んで、夜の高松を駆け抜ける。
◆
その一方で、セントラルキッチンの影では、岡島の孤独な戦いが続いていた。
増設されるライン、酷使される従業員、そしてさらに巧妙化していくデータの偽装。
「岡島さん、顔色が悪いわよ。少しは休んだら?」
一条が通りすがりに、労うような声をかける。だが、その視線は岡島の足元にある記録簿を鋭くチェックしていた。
「……売上が上がれば上がるほど、ラインの悲鳴が聞こえます。一条さん、これはもう、限界を超えています」
「限界なんて、誰が決めるの? 利益がすべてを正当化してくれる。それがビジネスよ」
一条は岡島の胸元に手を置き、壊れた機械をあやすように囁いた。
「あなたはただ、この数字を維持していればいいの。……もし何かが起きたら、私が守ってあげるわ。……今のところは、ね」
その言葉の裏にある「いつでも切り捨てられる」という冷たい宣告を、岡島は敏感に感じ取っていた。一条への歪んだ恋心と、職人としての倫理観が、彼の内側で軋みを上げる。
彼は深夜の工場で、独り、隠し持ったノートに「真実」を書き込み続けた。
生産量に対して、仕入れている国産キャベツの量が明らかに足りない。不足分は、一条が秘密裏に手配した、出所不明の安価な「調整キャベツ」に置き換わっている。
だが、それを告発する勇気は、まだ彼にはなかった。一条を失うことが、何よりも恐ろしかったからだ。
◆
同じ頃、路地裏の店。
恵美は、無人販売機の普及によって、かつての常連たちが「こっちの方が手軽だから」と去っていくのを、黙って見送っていた。
店の売上は、全盛期の数分の一にまで落ち込んでいる。
だが、彼女の包丁は止まらなかった。
「……あいつ、馬鹿ね。高く登れば登るほど、落ちる時の音が大きくなることも知らないで」
彼女は、蓮見が忘れていった「職人のプライド」を、一玉のキャベツの中に凝縮させるように、静かに、そして鋭く刻み続けた。




