第9話 壊れた羅針盤
「先生、これを見てください」
タワーマンションの自室で、一条が冷徹な手つきで一枚のマップを広げた。そこには、新しく設置される無人販売機のポイントが記されていたが、その一つが、蓮見の「本店」である路地裏の店と、あまりに近く重なっていた。
「……一条さん。ここは、俺の店だぞ」
「いいえ先生。今の契約上、このエリアは『蓮見餃子フランチャイズ』の独占営業権が発生しています。契約書の第十八条を思い出してください。『本部が認めた店舗以外の、半径二キロ以内における類似業態の営業禁止』。これは、加盟店の利益を守るための鉄の掟です」
「しかし、あそこは本店だ。例外だろう?」
「いいえ。契約上、先生がセントラルキッチンの『監修者』になった時点で、路地裏の店は本部の管理下に入っています。そして今、効率化の進んだ本部の餃子と、奥様が勝手に作っている『昔の餃子』が混在するのは、ブランドイメージを著しく損なうリスクがあるんです」
一条は、蓮見の肩に優しく手を置き、毒を流し込むように囁いた。
「先生。成功のためには、過去を切り捨てなければならない時があります。……あの店を閉めさせてください。それが、全国の加盟店に対する、監修者としての『誠意』です」
蓮見は、マセラティの鍵を握りしめ、沈黙した。
かつての自分なら、激昂して一条を追い出しただろう。だが今の彼は、一条がもたらす富と、自分を「一流」と呼んでくれる彼女の言葉なしでは、自分の存在を維持できなくなっていた。
「……わかった。一条さんに、任せる」
◆
数日後。路地裏の店に、一条が数人のスーツ姿の男たちを連れて現れた。
恵美が一人で仕込みをしているところへ、彼女は「閉店勧告書」を突きつけた。
「恵美さん。残念ですが、この店は今月末をもって閉めていただきます」
「……なんですって?」
「契約違反です。本部の監修を受けていない餃子を、この看板で出し続けることは許されません。それに、近隣に設置された無人販売機との競合回避義務にも抵触しています」
恵美は、一条の背後に隠れるように立っている蓮見の姿を見つけた。
「……あなた、本気なの? この店を、私たちの始まりの場所を、自分の手で潰すつもり?」
蓮見は、恵美と目を合わすことができなかった。
「……恵美。時代が変わったんだ。もう、こんな古いやり方は通用しない。お前も、いい加減に楽をしろ」
「楽? ……そう。あなたは本当に、楽をすることしか考えなくなったのね」
恵美は、一条が持ってきた書類を、一瞥もせずにゴミ箱へ捨てた。
「帰って。……私は、自分のやり方でこの店を守る。契約なんて知らないわ。私は『蓮見』の妻として、本物の味を守る義務があるのよ」
「法的手段に出ることになりますよ、奥様」
一条の冷たい警告が、油の匂いのする店内に響く。
◆
その様子を、物陰から見ていた男がいた。岡島だ。
彼は、一条が恵美を追い詰める時の、蛇のような冷酷な美しさに戦慄していた。そして、それ以上に、かつての師である蓮見が、何も言わずにただ立っている姿に、激しい嫌悪を覚えた。
『一条さん……あなたは、ここまで非情になれるのか。そして先生、あなたはそこまで壊れてしまったのか』
岡島は、ポケットの中の隠しノートを強く握りしめた。
データの不正、原材料の偽装、そしてこの非道な閉店工作。
すべてがつながっていた。
「まだだ。まだ、今じゃない……」
岡島は、恵美の震える背中を遠くから見つめながら、自分の中の「告発」の炎を、さらに静かに、しかし熱く燃え上がらせていた。
繁栄の頂点。マセラティの排気音が、静かな路地裏を蹂躙するように響き渡り、蓮見は一条と共に、空の上の城へと帰っていった。
◆
空っぽになった路地裏の自宅兼店舗。二階の古びた食卓には、一枚の紙が置かれていた。
蓮見がタワーマンションから久しぶりに「自分の家」へ足を踏み入れたとき、そこにあったのは、署名捺印済みの離婚届だった。
「……恵美」
部屋からは、彼女の気配が一切消えていた。使い古された包丁も、エプロンも、あの開店の日の写真も。あるのは、一条が持ち込んだ「閉店勧告書」と、冷え切った空気だけ。
蓮見は、その離婚届をマセラティの助手席に放り込み、高松を離れた。なぜか、彼女の実家がある愛媛へ向かわずにはいられなかった。
◆
一方、愛媛。
恵美は、瀬戸内の穏やかな海が見える実家に戻っていた。かつての騒々しい厨房の音も、添加物の痺れるような後味もない、静かな場所。
彼女は、潮風を吸い込みながら、自分の舌に残った「不純物」を洗い流そうとしていた。
「少し、歩いてくるわ」
母にそう告げて、夕暮れの町を散歩に出た。子供の頃によく通った、小さな商店街。
だが、そこで彼女が目にしたのは、あまりに残酷な光景だった。
角地の、かつては文房具屋だった空き店舗。
その薄暗い空間に、不自然なほど明るい蛍光灯を放つ、真っ白な箱が鎮座していた。
『二十四時間営業・蓮見餃子 無人販売所』
看板には、かつて自分がデザインを相談し、蓮見と誇らしげに掲げたあのロゴが、無機質に印刷されている。
店内には、蓮見の「監修者」としての写真が大きく飾られていた。一条がプロデュースした、洗練された、しかしどこか冷たい表情の「蓮見先生」。
「……ここにも、いるのね」
恵美は、その眩しすぎる店内に足を踏み入れた。
並んでいるのは、セントラルキッチンから運ばれてきた、冷凍された白い塊。
それはもはや食べ物ではなく、ただの「効率」と「利益」の結晶にしか見えなかった。
自分が、そして蓮見が、人生をかけて守ってきたはずの「味」が、こうして誰の温もりも介さずに、知らない土地で売られていく。
◆
その時、自動ドアが開いた。
入ってきたのは、幼い子供を連れた若い母親だった。
「今日はこれでいいよね。焼くだけでいいし、安いし」
「わーい! 蓮見さんの餃子、おいしいもんね!」
子供の無邪気な声が、恵美の胸を鋭いナイフで切り裂いた。
この子たちが食べているのは、蓮見が包んだ心じゃない。一条が数字で管理した、偽りの甘みだ。
恵美はたまらず、店を飛び出した。
海沿いの道を走り、喉の奥から込み上げる吐き気を堪えた。
◆
同じ頃、愛媛へとマセラティを走らせていた蓮見は、途中のサービスエリアで、自分の看板が掲げられた無人販売機を見かけた。
「……ああ、ここも売れているな」
彼は車から降りることさえせず、その光景を「成功の証」として眺めた。
離婚届の重みを打ち消すように、彼はマセラティのエンジンを激しく吹かし、一条への連絡を入れた。
「一条さん。……愛媛の拠点を、もっと増やそう。あそこは、まだ伸びるはずだ」
壊れた羅針盤。
蓮見は、自分が追いかけた「光」が、かつて愛した女性の心をどれほど深く、絶望の闇に突き落としているか、最後まで気づくことはなかった。




