第10話 欲望の帝国
マセラティの車内に、一条の潤んだような声が響いた。
愛媛の暗い海沿いの道。窓の外には、皮肉にも自分の名前を冠した無人販売機の白い光が流れていく。
「……先生、そんな遠くにいないで、早く戻ってきてください。あなたがいなくては、この事業も、私も、形を保てないわ」
一条からの、初めてとも言えるあからさまなアプローチ。
「今夜は、先生のマンションで、新しいブランディングの最終チェックをする予定でしたよね? シャンパンを冷やして、待っていますから。……二人きりで」
蓮見の喉が、微かに鳴った。
助手席には、恵美が残していった離婚届がある。それは、彼が歩んできた誠実な人生の「死体」のようだった。その死体から目を逸らすように、蓮見はアクセルを深く踏み込んだ。
「……今から、高松へ戻る。二時間で着く」
◆
高松のタワーマンション。
最上階の部屋に辿り着いた蓮見を待っていたのは、夜景を背に立ち、透けるようなドレスを纏った一条だった。
「お疲れ様でした、先生。愛媛の空気は、あなたには冷たすぎたようね」
彼女は蓮見のネクタイに指をかけ、ゆっくりと解いていく。
一条の体からは、いつもの都会的で冷たい香水ではなく、もっと官能的で、人を惑わすような甘い花の匂いが立ち上っていた。
「奥様のことは、もう忘れて。あなたは選ばれた人間なの。あんな路地裏の女に、あなたの翼を折らせてはいけないわ」
蓮見は、一条の瞳に映る自分の姿を見た。
そこには、キャベツを刻んでいた職人の影は微塵もなく、富と名声に溺れ、虚飾に塗り固められた一人の男がいた。
「一条さん……俺は、どこまで行けるかな」
「私と一緒に、世界の頂点まで。……ねえ、先生。今夜は『監修者』なんて肩書き、捨ててしまいましょう」
一条が蓮見の胸に顔を埋めた。
その瞬間、蓮見は彼女を激しく抱き寄せた。
それは愛というよりも、孤独と罪悪感から逃げるための、必死の足掻きだった。
タワーマンションの寝室。
添加物で麻痺した舌が、彼女の唇に触れる。
路地裏の店で、恵美と分け合った質素な食事の味も、額に流した汗の尊さも、すべてがこの贅沢な静寂の中に溶けて消えていった。
◆
タワーマンションの寝室で、蓮見は一条と決定的な一線を越えた。
一条の細い指が蓮見の背中をなぞり、都会の夜景を背景に、二人の影が重なる。蓮見にとって、それは恵美との決別であり、欲望の帝国への完全な帰依を意味していた。
◆
同じ夜。
セントラルキッチンの工場長室で、岡島は一人、デスクの電気だけを点けて作業に没頭していた。
彼の目の前にあるのは、一条から渡された新しいコスト削減案と、実際の製造ラインの整合性を記した非公式のノートだ。
「……一条さん。あなたは、この数字を維持するために、どれほど無理をしているんだ」
岡島は、ペンを置き、熱くなった目頭を押さえた。
彼から見れば、一条は完璧な仕事人であり、会社の利益のために、そして「蓮見」という気難しい職人を制御するために、身を粉にして働いている聖女のように見えていた。
(先生が、もっとしっかりしてくれれば。……あんなに我儘で、現場も顧みずにマセラティを乗り回している先生の尻拭いを、全部彼女が背負っている)
岡島にとって一条は、暗い工場の中で唯一光り輝く「正義」だった。
彼女が時折見せる冷徹な表情も、彼は「責任感の裏返し」だと信じて疑わなかった。彼女が自分を信頼して(と彼は思っている)データの改ざんという「汚れ仕事」を相談してきたことも、自分だけに心を開いてくれた証拠だと、歪んだ解釈をしていたのだ。
『一条さん。大丈夫ですよ。現場のことは、私がすべて何とかします。あなたが泥を被る必要はない』
岡島は、一条への一途な想いを燃料にして、データの隠蔽工作に手を染めていく。
それが、彼女を守ることだと信じて。
彼女が今、あの高いタワーマンションで、自分が軽蔑している蓮見の腕の中にいることなど、微塵も想像せずに。
◆
翌朝。
蓮見が一条と共に、満足げな顔で工場へ現れた。
一条は、昨夜の情事などおくびにも出さない、完璧なビジネス・ポートレートを纏っていた。
「おはよう、岡島さん。昨日のデータ、まとまったかしら?」
一条が、岡島のデスクに歩み寄る。
岡島は、彼女の姿を見た瞬間に背筋を伸ばし、顔を赤らめた。
「……はい。一条さんの指示通り、歩留まりの調整案を完成させました。これで、本部に突っ込まれることはありません」
「ありがとう。やっぱり、あなたは頼りになるわ」
一条が岡島の肩をポンと叩く。そのわずかな接触に、岡島は天にも昇るような幸福を感じていた。
そのすぐ後ろで、蓮見が不遜な態度でマセラティの鍵を弄んでいる。
「岡島。……あまり一条さんを困らせるなよ。現場は現場の理屈で動けばいいんだ」
蓮見のその傲慢な言い草に、岡島は奥歯を噛み締めた。
(一条さんを困らせているのは、あんたの方だ……)
岡島の心の中で、蓮見への憎悪と、一条への守護欲が、不気味に増幅していく。
彼が守ろうとしている「一条」という像が、実は蓮見と共謀して自分を「生贄」に仕立て上げている「化け物」であることに、彼はまだ気づかない。
純粋な「正義」と「愛」が、最も深い「悪」に利用されていく。
崩壊への序曲は、岡島の無垢な献身によって、より確実に、より残酷に奏でられ始めた。




