第11話 誘蛾灯
一条にとって、自分の美貌も知性も、そして肉体さえも、目的を達成するための「カード」に過ぎなかった。彼女は鏡の前で、その日、その相手にふさわしい仮面を選び取る。
蓮見に対しては——
タワーマンションの静寂の中で、彼女は蓮見に「あなたは特別な人間だ」と囁き続ける。
彼の肥大した自尊心を優しく包み込み、罪悪感を麻痺させる甘い毒。
「先生、岡島さんのような現場の人間は、数字と正論でしか世界を見られないの。でも、あなたは違う。あなたは『創造主』なのよ」
彼女は蓮見の前では、決して「女」であることを武器にしているとは悟らせない。あくまで、彼の才能を世界に広めるために身を捧げているパートナーとして振る舞う。蓮見が彼女を抱くとき、彼は一条を抱いているのではなく、彼女が作り出した「万能な自分」を抱いているのだ。
岡島に対しては——
一転して工場に降り立つと、一条は「現場を理解し、板挟みに苦しみながらも理想を追う上司」へと変貌する。
岡島の正義感を利用するために、彼女はあえて自分の「弱み」を少しだけ見せる。
「岡島さん、本当は私も、昔のままの素材でいきたいの。でも……本部を納得させるためには、今は耐えるしかないの。私の味方は、現場を知り尽くしているあなただけなのよ」
ふとした瞬間に見せる、疲れ果てたような溜息。乱れた一房の髪を直す、か細い指先。
岡島にとって、その一条の姿は「俺が守らなければならない、孤独な戦士」として映る。彼は彼女の「涙(の演技)」に、自分の人生を捧げる決意を固めてしまう。
◆
ある日の午後。監修室で蓮見とシャンパンを空けた直後、一条は化粧直しのために席を立った。
洗面台の鏡に映る自分を見つめる彼女の目は、数秒前までの熱っぽい潤いを完全に失い、爬虫類のように冷たく乾いている。
「……単純ね、二人とも」
彼女は唇に紅を引き直し、口角をミリ単位で調整して「微笑み」を再構築する。
蓮見には「名誉」という餌を与え、岡島には「信頼」という呪いをかける。
そして、その裏で彼女が進めているのは、万が一の時にすべての泥を二人に被せ、自分だけが本社の役員席へ駆け上がるための、緻密な「責任転嫁のシナリオ」だった。
彼女の手帳の隠しページには、岡島が良かれと思って行った「データ調整」のログが、すべて『工場長の独断による不正』として、いつでも提出できる状態で整理されている。
◆
工場の中央通路。透明なアクリル板越しに、監修室で一条と蓮見が談笑しているのが見える。
蓮見は高級ブランドのカタログを広げ、一条はその隣で楽しげに、時折彼の肩に手を置いて相槌を打っていた。
その光景を、一階の騒音の中で見上げる岡島の目は、怒りではなく、深い「同情」に満ちていた。
(……一条さん、また無理をして。あんな身勝手な先生の機嫌を取るために、あんなに楽しそうな振りをしなきゃいけないなんて)
岡島にとって、一条が蓮見に向ける微笑みは、会社という組織を守るための「自己犠牲」の象徴だった。
「現場のことは俺がやる。だから一条さんは、あんな男の相手をして、泥を被っているんだ」
彼は本気でそう信じていた。蓮見が一条に贈った高価な指輪が彼女の指で光っているのを見ても、彼は「先生に無理やり着けさせられた、彼女を縛る足枷」のように解釈した。
◆
ある夜、一条が疲れ果てた様子で工場長室にやってきた時のことだ。
彼女は言葉少なに、岡島の前に一束の「原材料調整表」を置いた。
「岡島さん、ごめんなさい……。これ、本当は私がやるべきことなんだけど。先生が、どうしても『見た目の美しさ』を優先させろって聞かなくて。コストをこれ以上上げられないのに……。私、もうどうしていいか」
一条は、震える声で俯いた。
実際には、彼女自身が利益を中抜きするために指示した内容だったが、岡島の目には、彼女が「傲慢な蓮見」と「非情な本部」の板挟みになり、心折れかけている悲劇のヒロインに映った。
「一条さん、顔を上げてください。……あなたが泣く必要はありません。このデータは、私が現場の判断で処理しておきます」
岡島は、彼女の細い肩を抱きたい衝動を必死に抑え、代わりにその「罪の書類」を自分のデスクの奥深くに引き受けた。
「先生の身勝手を、僕が消します。それが、一条さんのためになるなら」
◆
岡島が書類を整理するために部屋を出た直後。
一条は、彼がいなくなった扉を冷ややかに見つめ、大きく伸びをした。
その顔からは、先ほどまでの「儚い聖女」の影は一瞬で消え去り、退屈そうにスマホをチェックする冷徹な女の顔に戻っていた。
「……本当、バカね。正義感の強い男って、ちょっと頼るだけで勝手に命まで投げ出してくれる」
彼女は、岡島が必死に「自分の罪」として隠蔽したデータを、バックアップ用として密かに自分のクラウドへ転送した。
それは、いざという時に「工場長の独断による暴走」を証明するための、完璧な証拠物件となる。
岡島はそんなことも知らず、暗い工場の中で、一条の笑顔を守るためだけに、職人としての魂を少しずつ、しかし確実に削り取っていた。
彼が信じている「一条」という光が、実は自分を地獄へ誘うための「誘蛾灯」であることに、彼は最後まで気づこうとしなかった。




