第12話 陽炎
夏。
連日の40度近い酷暑は、四国の、そして全国の農地を焼き尽くした。
蓮見がかつて恵美と歩き、土の匂いを確かめた契約農家のキャベツは、芯まで枯れ果て、出荷不能に陥っていた。
「先生、危機的状況です。このままでは全国の無人販売機から、餃子が消えます」
一条が、眉をひそめて監修室に飛び込んできた。彼女の背後には、焦燥した表情の岡島が控えている。
「国産のキャベツがどこにもない。……先生、この局面を乗り切るには、一時的に輸入キャベツに切り替えるしかありません。物流網はすでに私が確保しました」
「……輸入だと?」
蓮見は、手にしていたマセラティの鍵を握りしめた。
「冗談じゃない。国産野菜こそが、この餃子の命だ。輸入ものなんて、水っぽくて甘みもありゃしない」
「ですが、欠品を出せば本部の信用は失墜し、加盟店への損害賠償は数億円に上ります」
一条が、いつになく強い口調で畳みかける。
「先生。味の方は、調整案があります。岡島さん、例のものを」
◆
岡島が、震える手で皿を差し出した。
中には、一条の指示で添加物を極限まで増量し、輸入キャベツの独特の臭みを消し去った「新型」の試作餃子があった。
蓮見は、忌々しそうにそれを口に運んだ。
(わかるはずだ。こんなもの、俺の舌をごまかせるはずが……)
だが、咀嚼した瞬間、蓮見は言葉を失った。
舌を刺すような鮮烈な旨味。そして、砂糖を煮詰めたような不自然な甘み。
麻痺した彼の舌には、それが「遜色のない美味しさ」に感じられた。いや、むしろ国産の素朴な味よりも、はるかに「売れる味」に思えてしまったのだ。
「……これなら、いける。国産と、変わらないじゃないか」
「でしょう? 先生の監修があれば、素材の産地なんて、ただの『記号』に過ぎないんです」
一条の口元が、わずかに吊り上がった。
◆
岡島は、そのやり取りを横で聞きながら、吐き気を堪えていた。
(……先生、あなたはもう、自分が何を言っているのかわかっていない。そのキャベツは、薬漬けで運ばれてきた、死んだ野菜なんだ……)
だが、一条が自分にチラリと向けた「お願い、協力して」という、あの悲劇の聖女のような視線に、岡島は抗えなかった。
「……先生。今年一年、この猛暑を乗り切る間だけという条件なら、なんとか現場で誤魔化せます。……やりましょう」
岡島は、自ら「不正」の片棒を担ぐ決断を下した。すべては一条を守るためだと自分に言い聞かせて。
「……わかった。今年一年だけだぞ。来年には、必ず国産に戻す」
蓮見は、自分への免罪符のようにそう呟き、契約書に判を捺した。
その指には、かつてのキャベツの泥は一滴もついていない。
こうして、「蓮見餃子」の看板からは、密かに、しかし決定的に「魂」が抜かれた。
「今年一年だけ」という妥協。
それが、崩壊への最後の引き金になることを、蓮見はまだ知らない。
彼はただ、窓の外で陽炎が揺れる高松の街を見下ろし、マセラティの冷房を最強に設定した。
◆
単なる季節の巡りではなかった。それは、天がこの地に下した「罰」のようだった。
高松の街は、朝の八時を過ぎた時点で、巨大な蒸し器の底へと沈んだ。アスファルトからは陽炎が蛇のように立ち上り、遠くの景色をぐにゃりと歪ませる。マセラティの重厚なドアを開けるたび、車内の冷気は一瞬で奪われ、代わりに肺を焼くような熱風が喉の奥まで侵入した。
蓮見がかつて恵美と歩いた契約農家の畑は、今や見る影もなかった。
瑞々しい緑を誇っていたキャベツの葉は、連日の直射日光に焼かれ、縁から茶色く縮れ上がっている。土は亀裂が走り、どれだけ水を撒いても、乾いた喉が鳴るように一瞬で吸い込まれて消えた。
「先生、見てられませんよ。芯まで熱を持って、腐る前に『焼けて』しまっている」
農家の男が、泥のついていない乾いた手で、茶色い塊を叩く。カサカサと、死んだ落ち葉のような音が響いた。かつて、叩けば「コンコン」と生命の重みを返してきたあの音は、もうどこにもなかった。
◆
セントラルキッチンの中でも、猛暑は牙を剥いていた。
最強設定の空調ですら、巨大な機械が発する熱と外気の圧力に押し戻され、作業員たちの防塵服の下には、不快な汗が絶え間なく流れる。
岡島は、搬入口から運び込まれる野菜の温度を測るたび、絶望に近い数字を記録していた。
「……35度。これでは、餡にする前に鮮度が死ぬ」
現場に漂うのは、キャベツの清々しい香りではない。熱に当てられ、微かに発酵を始めたような、重苦しく甘ったるい死臭だった。
◆
そんな地獄のような暑さの中で、一条だけが、まるで別世界から来た氷の彫刻のように涼しげだった。
彼女の肌からは汗ひとつ浮かばず、常に都会的で鋭い、冷ややかな香水の香りが漂っている。
「先生、この暑さで国産にこだわるのは、もはや『美学』ではなく『怠慢』です」
監修室の冷房の効いた空間で、一条が差し出すキンキンに冷えた炭酸水。その心地よさに、蓮見の思考は停止した。
「今年一年だけだ。……この暑さが、俺を狂わせているんだ」
そう自分に言い聞かせながら、蓮見は一条が手配した「輸入キャベツ」という名の代替品を受け入れた。
それは、薬液の力で無理やり瑞々しさを保たれた、心のない野菜だった。
外では、蝉の声さえも熱にうなされて途切れ途切れに響いている。
蓮見の職人としての誇りは、この容赦ない太陽の下で、音を立てずに蒸発していった。




