第13話 復讐の炎
深夜のタワーマンション。
隣で、添加物とアルコールに溺れ、泥のように眠る蓮見の寝顔を、一条は暗闇の中で見つめていた。その瞳には、昼間の情熱的な「ミューズ」の面影はなく、底冷えするような憎悪だけが宿っている。
彼女の記憶は、数年前の、あの猛暑の日へと遡る。
一条の実家は、後に蓮見たちが救った「ひまわり食堂」からわずか数百メートルの場所で、小さな中華料理店を営んでいた。
頑固だが腕のいい父が作る餃子は、地元では評判だった。しかし、ある日を境に客足が完全に途絶えた。理由は明白だった。「ひまわり食堂」が、あの「蓮見餃子」と提携し、爆発的なブームを巻き起こしたからだ。
「うちも、蓮見さんのところに頭を下げに行こう」
借金に追われ、藁にもすがる思いで父と一条は、当時まだ路地裏にいた蓮見を訪ねた。
しかし、そこで待っていたのは、佐伯を通した冷酷な「門前払い」だった。
『申し訳ありませんが、ひまわり食堂さんと商圏が重なります。FC契約の規約上、近隣への出店は認められません』
父は、あの日、絶望の中で店を畳んだ。
一条が大学を卒業し、なりふり構わず今の食品商社へ潜り込んだのは、すべてはこの瞬間のためだった。蓮見の成功を最も近くで支え、最も高い場所まで持ち上げ、そして――。
◆
「……ねえ、先生。あなたが『ひまわり食堂』を救ったあの日、すぐ隣でひとつの家族が死んだことを、知る由もないわよね」
一条は静かにベッドを抜け出し、リビングで自分のノートパソコンを開いた。
そこには、岡島が必死に隠蔽している「輸入キャベツへの切り替え」と「添加物の過剰投与」のすべての記録が、彼女の解説付きで整理されている。
さらに彼女は、あるフォルダを開いた。
それは、蓮見が「妻の承諾はいらない。一度楽を覚えれば戻れない」と豪語したあの夜の、隠し撮りされた音声データだった。
「先生、あなたは自分の手で、一番大切な人を捨てた。そして次は、自分の手で、この帝国を焼き払うのよ」
彼女は、岡島の端末を遠隔操作し、ある「匿名告発サイト」へ、ごく小規模な、しかし致命的なデータの断片をアップロードした。
まだ、爆発させるには早い。
まずは小さな不信の種を蒔き、蓮見が焦ってマセラティを飛ばし、岡島に無理な指示を出すように仕向ける。
彼女の仮面の裏側で、復讐の炎は猛暑の熱気よりも熱く、静かに燃え盛っていた。
◆
一条の脳裏には、今もあの蒸し暑い、廃業前夜の厨房の景色が焼き付いている。
店を畳むことが決まった夜、父は最後の一皿として、一条に餃子を焼いてくれた。
「ひまわり食堂」の行列を遠くに眺めながら、父は震える手でフライパンを握り、かつての活気を失った店内で静かに口を開いた。
「えみり(一条の本名)、……蓮見さんを恨んじゃいけないよ。あの人は、ただ一生懸命に自分の味を信じて、人を助けただけなんだ。……悪いのは、時代についていけなかった俺の腕だ」
父は無理に作った笑顔でそう言った。だが、その翌朝、父は冷たくなった体で発見された。遺書はなく、ただ厨房の隅に、蓮見に断られた際の「FC契約不成立」の通知書が、涙の跡で歪んだまま置かれていた。
「……お父さん、あなたは優しすぎたのよ」
一条はタワーマンションのベランダで、高松の夜景を見下ろしながら呟いた。
父が「恨むな」と言えば言うほど、一条の中の憎しみは純化されていった。自分の非力さを責めて死んでいった父の無念を晴らすには、蓮見が作り上げた「偽りの帝国」を、内側から腐らせ、完膚なきまでに破壊するしかない。




