第14話 翠玉包み
「……これは、もう彼の味じゃない」
恵美は、冷めた餃子の残骸を見つめながら、静かに、はっきりと呟いた。
かつて蓮見が「自分たちの子供」のように慈しんだレシピが、今はただの「効率」という名の怪物に成り果てている。彼女は、離婚届を出して逃げ出した自分を恥じた。自分が去ったことで、彼は本当の孤独に陥り、魔物に魂を売ってしまったのではないか。
◆
翌朝、愛媛の空は、高松のそれよりもずっと広く感じられた。
恵美は、実家近くの法律事務所の重い扉を押し開けた。手元には、離婚届を出した際にこっそりと持ち出した「蓮見餃子」のフランチャイズ契約書の写しと、一冊の古いノートがある。
応対した知的財産権の専門家、大河内弁護士は、恵美が持参した書類を読み進めるうちに、その眼鏡の奥の目を鋭く光らせた。
「……なるほど。一条という女性、相当なキレ者ですが、致命的な落とし穴に気づいていませんね」
大河内は、契約書の第十二条を細い指でなぞった。
「彼女たちが必死に押さえているのは、あくまで『蓮見餃子』という店舗名とロゴマーク、そして現在工場で使用している『特定のレシピ』に限定されています。彼女は餃子を、誰が作っても同じになる『工業製品』としてしか見ていない」
◆
恵美は、持参したノートをそっと開いた。そこには、蓮見がまだ路地裏で油にまみれていた頃、冗談半分に、けれど真剣に二人で考えた「将来の夢」が記されている。
「先生、この『翠玉包み(すいぎょくづつみ)』という名前……。これはまだ、どこにも登録されていませんよね?」
「ええ。検索しましたが、未登録です」
「そして、この『配合のロジック』も……」
恵美が指し示したのは、単なる分量の数字ではなかった。
『夏はキャベツの水分が多いため、塩を〇・三パーセント増やし、捏ねる時間を二分短縮する』
『冬は肉の脂が固まりやすいため、室温を三度上げ、隠し味に〇〇を加える』
それは、気温や湿度、産地に応じて無限に変化する、職人の脳内にしかない「動的なアルゴリズム」だった。
一条たちは「固定された数値(現在の味)」を盗んだが、蓮見の技術の本質である「変化への対応」という概念を完全にノーマークにしていたのだ。
◆
「先生。今の『蓮見餃子』という名前が、たとえこの先、泥に塗れて消えることになっても構いません」
恵美の声は、瀬戸内の凪のように静かだった。
「でも、あの人が人生をかけて積み上げてきた『翠玉』の輝きだけは、汚させてはいけない。……手続きをお願いします。本部の手が及んでいない、この『翠玉包み』の商標と、季節ごとの秘伝製法のノウハウ。すべて私の名義で、法的に保全してください」
大河内は、恵美の硬く結ばれた拳を見つめた。
「……いいんですか? これには多額の費用がかかります。それに、本部を正面から敵に回すことになる」
「いいんです」
恵美は窓の外、遠く高松の方角をじっと見据えた。
「あの人が、あの不自然に高い場所から叩き落とされたとき……。裸一貫になった彼に、この『名前』と『本物の味』を返してあげたい。それが、私が妻としてできる、最後の仕込みですから」
◆
法律事務所からの帰り道、恵美は地元の直売所で一玉のキャベツを買った。
ずっしりと重く、葉の先まで水分が行き渡った、朝採れの地場産だ。猛暑で高騰し、高松の巨大な工場が「輸入もの」に切り替えたというのに、ここではまだ、農家が泥にまみれて守り抜いた本物が息づいていた。
実家の古い台所に立つ。
恵美は、大河内弁護士に預けた「商標登録の申請書」の感触を指先に残しながら、包丁を握った。
一条えみりは、蓮見を「蓮見餃子」という看板で縛り付けた。だが、恵美が今日仕掛けたのは、その看板が腐り落ちた後に、彼を再び地面に立たせるための「真実の証明」だった。
「ト、ト、ト、ト……」
リズムよく、正確に、キャベツが刻まれていく。
一条が数字で管理し、岡島が嘘を塗り重ねている「工場」の喧騒とは無縁の、清らかで力強い響き。
恵美の反撃は、誰にも気づかれぬまま、愛媛の小さな台所から始まった。
彼女が守ったこの「抜け穴」が、やがて地獄に堕ちる蓮見を救い出す唯一の蜘蛛の糸になることを、高松でマセラティを転がす蓮見は、まだ知る由もない。




