第15話 最初の雫
タワーマンションのベランダから見下ろす高松の街は、今日も猛暑の残滓を纏い、陽炎の中にぼやけていた。
蓮見はマセラティのキーをリビングのガラステーブルに放り、一条が用意してくれた冷えた白ワインを一口啜った。
「先生、今月の無人販売機の成約数、さらに二〇パーセントの上乗せです」
一条は、タブレット端末を流れるような手つきで操作し、右肩上がりのグラフを蓮見に見せた。蓮見は、もはやその数字を見ても驚かなくなっていた。ただ、自分が特別な存在であることを証明する記号として、それを享受していた。
「……一条さん、君のおかげだ。あいつ(恵美)が言っていたことなんて、結局は小さな職人の意固地だったんだな」
「ええ、先生。時代は、あなたの『判断力』を求めていたのです。現場の古い慣習に縛られず、最良の選択をした結果ですわ」
一条の微笑みは、完璧だった。
だが、その視線の先、岡島がいる「現場」では、小さな亀裂が音を立てずに広がっていた。
◆
工場の岡島は、搬入口に積み上げられた「輸入キャベツ」の段ボールの影で、一人立ち尽くしていた。
一条から指示された「調整済みデータ」の入力を終えた直後の、指先の震えが止まらない。
現場の従業員たちの間でも、囁き声が漏れ始めている。
「工場長、最近のキャベツ……なんか、匂いが違くないですか?」
「……気のせいだ。猛暑の影響で、少し身が締まっているだけだ。作業に戻れ」
岡島は、自分を慕う部下たちの目を逸らし、冷たい言葉を投げた。
胸の奥が、焼けるように痛む。
(俺は一条さんを守っているんだ。彼女が、先生のわがままや本部の圧力から会社を救うために、必死で考えた策なんだ。……俺がここで折れるわけにはいかない)
彼は、一条からかつて言われた「信頼しているわよ」という言葉を、脳内で何度も再生し、自分自身の良心を麻痺させていた。
だが、彼は気づいていなかった。
一条が、彼に「入力させた」その改ざんデータのログが、本人の知らないところで、外部の匿名サーバーへと、細い糸のように吸い上げられていることに。
◆
同じ頃、愛媛の恵美は、実家の古いパソコンを使い、ある手続きの完了メールを確認していた。
『商標出願・特許庁受理通知』。
彼女が保全したのは、蓮見が捨てたはずの「過去」であり、一条がゴミ箱に放り投げた「誠実さ」の断片だった。
彼女はまだ、一条の復讐の計画など何も知らない。
ただ、台所でキャベツを刻みながら、胸を騒がせる不吉な予感に耐えていた。
◆
高松と、愛媛。
そして、不気味なほど整然と動き続ける巨大な工場。
「……先生、今夜は少し、贅沢なディナーを予約しました」
一条が蓮見の肩を抱き寄せ、耳元で囁く。
蓮見はその甘い香りに身を委ね、眼下の街で、最初の「不信」がネットの海に書き込まれたことにも気づかなかった。
『最近、ハスミの餃子、味が変わった?』
掲示板に投稿された、たった一行の小さな呟き。
それが、巨大なダムの決壊を知らせる、最初の雫だった。
◆
「ひまわり食堂」の窮地を救い、店先にあの「蓮見餃子」の看板が掲げられてから、早いもので三年の歳月が流れていた。
その三年は、蓮見にとって怒涛の快進撃だった。路地裏の小さな店は、瞬く間に県外からも客が押し寄せる聖地となり、佐伯が持ち込んだ「システム化」の波に乗って、全国へとその名を轟かせた。
だが、この三年という月日は、同時に一人の女性を「怪物」に変えるのにも十分な時間だった。
◆
一条えみり。
現在、蓮見の右腕として君臨する彼女の経歴書には、都内の大手コンサルティングファーム出身という華々しい肩書きが並んでいる。だが、その完璧すぎるキャリアには、注意深く見なければ気づかない「不自然な空白」と「急速すぎる昇進」の跡があった。
(……二十代で、この落ち着きと決断力。本当なら、恐ろしいほどの天才だ)
工場長の岡島は、時折、彼女の横顔を盗み見ながらそう感じていた。
一条の仕事ぶりは、単なるビジネスパーソンのそれではない。まるで、何か大きな獲物を仕留めるために、自分の青春も、感情も、全てを削ぎ落として「大人の女性」という鎧を作り上げたような、悲壮なまでの完成度。
彼女が食品商社へ潜り込み、蓮見のプロジェクトを強引に引き継ぐ形で後任に収まったのは、一年前のことだ。
佐伯が「彼女こそ、先生を次のステージへ連れて行く」と太鼓判を押した際、蓮見は彼女の美しさと知性に一瞬で目を奪われた。だが、彼は知る由もなかった。
三年前、蓮見が「ひまわり食堂」を救い、その隣の店を静かに死に追いやったあの日。
一条えみりは、大学の講義室を飛び出し、父の葬儀もそこそこに、復讐のための「最短ルート」を走り始めたことを。
昼は働き、夜は経営と法律を死に物狂いで学んだ。佐伯という野心家の弱みを握り、彼を利用して蓮見の懐へと滑り込んだ。彼女が纏う「一流の女」の香りは、三年間、復讐の炎で燻され続けた末に辿り着いた、彼女なりの武装だった。
◆
「先生、三周年記念の特設サイトのPV数、過去最高を記録しましたわ」
タワーマンションのリビングで、一条が蓮見に微笑みかける。
蓮見は、マセラティの鍵を揺らしながら、満足げに頷いた。
「三年か……長いようであっという間だったな。俺も、ようやくこの暮らしが『身の丈』に合ってきた気がするよ」
その言葉を聞いた瞬間、一条の瞳の奥で、三年分の憎悪が静かに揺れた。
(ええ、そうね。あなたが積み上げた三年分の嘘が、一番美しく輝く時を待っていたのよ)
高松の夜景。
三年前には想像もできなかった高い場所で、蓮見は勝利の美酒に酔いしれている。
だが、その足元にある砂の城は、一条という「三年の歳月をかけて研ぎ澄まされた刃」によって、今まさに根本から断ち切られようとしていた。




