第16話 隠蔽
その「毒」は、最末端の細胞から本部の心臓部へと、組織の血流を逆流するように伝わってきた。
岡山の店舗を運営するオーナーが、受話器を握りしめながら本部へ電話を入れたのは、保健所の立ち入り調査が終わった直後のことだった。
「……信じてくれ、もう限界だったんだ! 廃棄ロスを全部こっちに押し付けて、ロイヤリティだけはきっちり持っていく。そんな本部のやり方じゃ、日付を書き換えるしか道はなかったんだよ!」
本部の受付デスクでその怒号を受け止めた担当者は、血の気が引くのを感じながら、すぐにその情報を「戦略広報部」――つまり、一条えみりの直属のラインへと回した。
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そこからの動きは、一条の計算通り、淀みなかった。
彼女はまず、工場の岡島に一本の短い電話を入れた。
「岡島さん、岡山の件、聞きましたわね? ……ええ、現場の勝手な暴走よ。でも、これが世に出れば先生の名前に傷がつく。工場の出荷データと、その店の納品記録の整合性、大至急『調整』してちょうだい。先生には私から伝えますから」
「……調整って、一条さん。それは、事実を書き換えるということですか?」
「先生を守るためよ、岡島さん。信じてるわ」
一条はそう言い捨てると、電話を切った。岡島は工場の冷たい風が吹き抜ける事務所で、震える手でパソコンのキーボードに手を置いた。彼にとって一条の言葉は絶対の聖書であり、その裏にある復讐の意図など、微塵も疑う余地はなかった。
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その日の夜。
タワーマンションの静寂の中で、蓮見は一条からその事実を告げられた。
クリスタルグラスの中で、シャンパンの泡が無機質に弾けている。一条は、まるで「明日の天気」を報告するかのような落ち着いたトーンで、岡山のオーナーの独断による不祥事を語った。
「……賞味期限の、貼り替え?」
蓮見はグラスを置いた。三年前、路地裏でキャベツを刻んでいた頃の自分なら、その場で激昂し、岡山まで車を飛ばしていただろう。
「ええ。残念ながら、現場のモラルの欠如ですわ。でも先生、安心してください。岡島さんがすでにデータの整合性を確認し、これが『本部の管理外で起きた一店舗の過失』であることを証明する準備を整えています」
「公表すべきじゃないのか? 隠せば、いつか……」
「公表すれば、真面目にやっている他のオーナーたちも、あなたの名前を背負っている全従業員も、一蓮托生で沈むことになります。……先生、これが大人の、経営者としての責任の取り方ですわ。小さな誠実さのために、巨大な帝国を崩壊させるのは、本当の正義ではありません」
一条の声は、霧のように蓮見の良心を包み込み、思考を麻痺させていった。
蓮見は眼下に広がる街の灯りを見つめた。
あの中のどこかに、日付を偽られた自分の餃子が並んでいる。かつての彼が最も嫌悪した「嘘」が、今は自分の生活を守るための「必要悪」として、一条の手によって美しく舗装されていた。
「……分かった。一条さんに任せる」
蓮見がそう呟いた瞬間、一条の口角が、ほんのわずかに、残酷に吊り上がった。
彼女が狙っていたのは、まさにこれだった。
本部の指示ではなく「現場の暴走」という事実を逆手に取り、蓮見自らに「隠蔽の判」を捺させる。その一歩が、底なしの沼への入り口であることを、蓮見はまだ知らない。
窓の外では、瀬戸内海の夜が、何も言わずに黒く沈んでいた。
◆
「隠蔽」の決断を下してからわずか三時間後。蓮見のスマートフォンが、これまでにない異常なバイブレーションを刻み始めた。
「……なんだ、これは」
画面を埋め尽くしていたのは、見知らぬアカウントからのメンションと、激しい勢いで拡散される一本の短い動画だった。
動画の主は、岡山の店舗で深夜バイトをしている大学生らしき青年だった。
『これ、マジでヤバくない? 店長に指示されて、今日が期限の餃子のラベル、明後日の日付に貼り替えてるんだけど。ハスミの餃子、信じてたヤツ可哀想(笑)』
映像には、オーナーが油性マジックで新しいラベルにチェックを入れる横顔と、山積みになった「蓮見餃子」のパックが鮮明に映り込んでいた。
「……バカな」
蓮見の指が震える。
一条が「調整」と言い、自分が「責任」という言葉で蓋をしたはずの汚臭が、インターネットという無機質な空間を通じて、一瞬で世界中に解き放たれたのだ。




