第17話 二人のえみ
「……契約解除、及び、ブランド毀損による損害賠償請求……?」
岡山の店舗の薄暗い事務所で、オーナーは本部から届いた内容証明を何度も読み返した。
バイトの動画が拡散されてから、わずか数時間。本部が取った行動は、事情聴取でも支援の手差しでもなく、法という名の「処刑宣告」だった。
「ふざけるな……。俺たちがどんな思いで……」
オーナーは、デスクを拳で叩きつけた。
彼にとって、蓮見という男はもう、テレビの中で「こだわり」を語る成功者の象徴でしかなかった。自分たちが猛暑と赤字に喘いでいる間、本部の人間がどこでどんな贅沢をしているかなど想像もつかない。ただ一つ確かなのは、自分たちが必死に集めた売上の数パーセントが、自分たちを切り捨てるための「弁護士費用」に化けたという事実だけだ。
「……蓮見。あんた、現場をトカゲの尻尾みたいに切り捨てて、自分だけ逃げ切れると思うなよ」
オーナーの目は、絶望から復讐の火へと変わった。
◆
同じ頃。一条は、提訴の手続きを終えた報告書を蓮見のデスクに置いた。
「先生、これで世間に対するポーズは完璧です。『不正を許さない厳格な本部』。このイメージを打ち出すことで、逆に信頼を回復できますわ」
蓮見は、デスクの上にある高級な万年筆を見つめたまま、言葉を発さなかった。
彼は、岡山のオーナーの顔さえ思い出せなかった。ただ、かつて路地裏で「一緒に頑張りましょう」と握手を交わした初期のオーナーたちの手の温もりだけが、幻肢痛のように痛んだ。
「……一条さん。本当に、これでよかったのかな。彼は、家族がいると言っていた」
「先生。甘さは毒ですわ。……さあ、顔を上げてください。明日の朝刊には、我々の断固たる措置が掲載されます」
◆
提訴の手続きを淡々と進める一条の背中に、蓮見の、掠れた、しかし切実な声が投げかけられた。
「……一条さん。ノルマを、もう少し緩くはできないだろうか」
一条の手が、タブレットの上で止まった。振り返ると、蓮見は高級なデスクの椅子に深く沈み込み、力なく両手を組んでいた。
「先生、何を仰るのですか。今ここで基準を緩めれば、本部の収益構造が崩れます。株主や銀行が黙っていませんわ」
「分かっている。……だが、今回の岡山の件だって、元を辿れば俺たちが彼らを追い詰めすぎたからじゃないのか。……俺を信じて、人生を賭けて看板を背負ってくれたオーナーたちなんだ。彼らの気持ちを考えると、俺は……自分がひどく汚い人間に思えてくるんだ」
蓮見の瞳には、かつて路地裏でキャベツを刻んでいた頃の、あの真っ直ぐで不器用な光が微かに灯っていた。富と名声に溺れ、マセラティを乗り回す「偽物の成功者」の仮面の陰から、一人の「男」としての良心が顔を覗かせた瞬間だった。
◆
その瞬間、一条の胸の奥で、カチリと何かが音を立てた。
(……何よ、その目は)
彼女は激しい動揺を覚えた。彼を憎み、破滅させるために近づいた。彼が欲に溺れ、醜く堕落していく様を特等席で眺めるはずだった。なのに、この土壇場で、彼は自分が最も大切にしていた「誠実さ」を、捨てきれずにさらけ出している。
一条は、自分の中に芽生えた、説明のつかない感情に戸惑った。それは、かつて優しすぎて死んでいった父の面影を、目の前の男に重ねてしまったからなのか。あるいは、孤独な復讐路を歩んできた自分にとって、彼のその「甘さ」が、毒薬ではなく、救いのように見えてしまったのか。
気づけば、一条の口からは、計算にはなかった言葉が漏れていた。
「……分かりました。先生の仰る通りですわ」
彼女は視線を逸らし、震える指でスケジュールの書き換えを始めた。
「今回の不祥事を逆手に取り、全国のチェーンへ緊急の緩和措置を講じます。ロイヤリティの暫定引き下げと、仕入れ価格の調整。……私たちは、少しばかり利益を追求しすぎていたのかもしれません」
「……いいのか?」
「ええ。ブランドの再建には、オーナーたちとの信頼関係の修復が不可欠ですから。それが、本当の意味での『経営』ですわ」
一条は自分に言い聞かせるように、早口で言った。
蓮見は安堵の溜息をつき、彼女の手をそっと握った。
「ありがとう、一条さん。君がいてくれて、本当によかった」
蓮見の温かい手の感触に、一条は心臓が跳ねるのを感じた。
復讐のシナリオは、今、彼女自身の「情」によって、予測不能な方向へと脱線し始めた。
(……馬鹿ね、私。こんな男、さっさと地獄に落とせばいいのに)
一条は、蓮見の手を振り払うことができなかった。
◆
だが、この「緩和措置」という決断が、すでに毒を盛られた帝国の崩壊を止める薬になるのか、それとも、さらに事態を複雑な悲劇へと導くのか。
愛媛の空の下、夫を救うための「法的な罠」を仕掛け終えた恵美。
そして高松で、仇であるはずの蓮見に、理屈を超えた想いを抱き始めた一条。
二人の「えみ」の想いが、蓮見という男の運命を、さらに激しく翻弄していく。




