第18話 臨界点
「……緩和措置、ですか」
工場のモニター越しに一条の指示を聞いた岡島の声は、乾いた砂のように掠れていた。
一条の横には、憑き物が落ちたような穏やかな表情の蓮見が立っている。二人の間に流れる、密やかで濃密な空気。それは、仕事上のパートナーという一線を越えた、男女の「情」が通い合う独特の熱を帯びていた。
岡島は、握りしめたマウスが軋むほど手に力を込めた。
彼にとって、一条は汚れなき聖女だった。そして、この「蓮見餃子」の再建こそが、彼の人生のやり直しの象徴だったのだ。
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かつて岡島は、誰もが知る大手食品工場の品質管理部にいた。
そこで見つけた、組織ぐるみの産地偽装。正義感に燃えた彼は内部告発を行ったが、待っていたのは賞賛ではなく、周到な揉み消しと、家族さえも遠ざけるような陰湿な左遷だった。
『組織の歯車になれない人間は、どこへ行っても居場所はないぞ』
上司の冷笑に背を向け、退職届を叩きつけた。絶望の淵にいた彼を拾い上げたのが、当時コンサルタントとして暗躍していた佐伯だった。
「岡島さん。君のその『潔癖さ』を、今度は俺のために使ってくれないか。……君が守りたい正義を、本当の職人のもとで実現させるんだ」
そう言われて紹介されたのが、一条えみりだった。
彼女の凛とした美しさと、食に対する(と岡島が信じた)厳しい姿勢に、彼は救いを見出した。彼女のためなら、一度は捨てたはずの「不正」という泥にさえ、あえて手を染めてきた。彼女を、そしてこの場所を守るために。
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だが今、その一条が、自分が最も軽蔑している「慢心の塊」であるはずの蓮見に、吸い寄せられるように惹かれている。
「岡島さん、聞いてる?……今回の不祥事の責任をオーナーだけに押し付けるのは、私たちの本意ではないの。利益を削ってでも、彼らを支えるわ」
モニターの中の一条の瞳は、かつての鋭さを失い、潤んでいるように見えた。
岡島には分かった。その決断は、経営判断ではない。蓮見という男の「甘さ」に、彼女が絆された結果なのだ。
(……俺がどれほどの思いで、あの不適切なデータを消し、輸入キャベツの記録を書き換えてきたと思っているんだ。一条さん、あなたは……その俺の献身を、あの男の『気まぐれな善意』のために投げ捨てるのか)
岡島の胸に、黒い炎が静かに灯った。
それは、かつて不正を告発した時の「正義の怒り」ではない。もっと醜く、湿り気を帯びた、激しい嫉妬という名の憎悪だった。
「……了解しました。本部の指示通り、コスト調整の再シミュレーションに入ります」
岡島は、モニターを切った。
暗転した画面に映る自分の顔は、かつて自分が軽蔑した「不正を隠蔽する側の人間」の、歪んだ表情そのものだった。
◆
その夜、岡島は工場の奥深く、自分だけが知るバックアップ用のハードディスクを手に取った。
そこには、一条の指示で彼が手を染めてきた、すべての「記録」が眠っている。
もし、一条が本当に蓮見のものになってしまうなら。
もし、自分の居場所がここにもなくなってしまうなら。
「……一条さん。俺は、あなたと一緒に地獄へ堕ちる準備はできているんですよ」
岡島の独り言は、機械の唸りにかき消された。
愛媛で静かに包丁を研ぐ恵美。復讐の刃を鈍らせ始めた一条。そして、かつての正義を狂気へと変えつつある岡島。
蓮見を取り巻く三人の男女の想いは、今や爆発寸前の臨界点に達していた。
◆
「……分かりました。原価率の再調整、私が何とかします」
岡島は、工場の事務所で一条にそう告げた。
蓮見が打ち出した「オーナーへの緩和措置」は、本部の利益を削ることを意味する。だが、本部の収益を維持しなければ、一条の立場が危うくなることを岡島は本能的に察していた。
(一条さんのためだ。彼女が、あの男の無責任な善意によって責任を問われないように……俺が、泥を被るしかない)
岡島は、かつて自分が内部告発したあの「大手の不正」と全く同じ、あるいはそれ以上に悪質な手法に手を染めた。
安価な輸入野菜の混入比率をさらに上げ、肉の脂身の割合を増やし、添加物で「味の厚み」を偽装する。そして、それらの仕入れデータを、本部の監査をすり抜けるように精巧に改ざんしていく。
彼は信じていた。この「弱み」を共有することで、自分と一条は、もはや切り離せない運命共同体になったのだと。
◆
だが、その均衡を崩す者が現れた。
「……やあ、お熱いようだね」
工場の視察室に、音もなく現れたのは佐伯だった。
かつて岡島を拾い、一条を蓮見の懐に送り込んだ男。彼は、モニター越しに蓮見と親密そうに話し込む一条の姿を眺め、口角を歪めた。
「佐伯さん。……どうして、ここに」
岡島が警戒心を露わにする。
「いやあ、面白い変化だと思ってね。復讐の女神が、ターゲットの懐で眠り始めている。……岡島君、君にはどう見えている? 彼女、最近は『先生』を見る目が、単なる仕事のパートナーのそれじゃなくなっているだろう?」
「……何が言いたいんですか」
「君が命懸けで守っているその『不正の山』も、彼女にとってはもう、ただの重荷にすぎないのかもしれない。……もし蓮見が『すべてを公表してやり直そう』なんて言い出したら、彼女は喜んで君を切り捨てて、彼と一緒に愛媛へでも逃げるんじゃないかな?」
「一条さんは、そんな人じゃない!」
岡島が激昂するのを、佐伯は楽しげに眺めた。
「そうかな? 女の『情』は、男の『正義』よりもずっと移ろいやすい。……君がどれだけ汚れた手で彼女を支えても、彼女が見つめているのは、その汚れた手でキャベツを刻んでいた、かつての蓮見の幻影だよ」
佐伯は岡島の肩に手を置き、耳元で毒を流し込むように囁いた。
「岡島君。……君はもう、彼女と『弱み』を握り合っているつもりかもしれないが、現実は違う。君だけが『実行犯』として、奈落の縁に立たされているんだ。……彼女を自分のもとに引き戻したいなら、あの男を、再起不能な場所まで叩き落とすしかないとは思わないか?」
岡島の瞳に、どす黒い嫉妬の火が灯るのを、佐伯は見逃さなかった。
彼は、一条の変化を利用し、岡島を暴走させることで、蓮見という「商品」を最も残酷な形で処理しようとしていた。
高松の工場に、機械の唸りとは違う、不気味な軋み音が響き始めていた。




