表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/57

第19話 潮時

佐伯は、工場の視察室を出て、マセラティよりもさらに冷徹な輝きを放つ漆黒の外車の後部座席に身を沈めた。

車窓から遠ざかる工場を見上げ、彼は細い煙草に火をつけた。

「……この熱狂も、せいぜいあと数ヶ月か」

佐伯のスマートフォンには、食のトレンド分析から算出された残酷なデータが並んでいた。「無人販売」という物珍しさは飽和し、消費者の関心はすでに次の刺激へと移っている。ブームが去れば、残るのは巨大化した設備と、高騰したままの原材料、そして隠蔽された不祥事という名の「負債」だけだ。

彼にとって、蓮見は使い古した「看板」にすぎない。一条の復讐心も、岡島の潔癖な執着も、すべてはブームを加速させ、最大限の利益を搾り取るための便利な歯車だった。

「さて……誰に最後を締めくくってもらおうか」

佐伯は煙を吐き出した。

一番効率的なのは、一条が蓮見と心中するように、不祥事の全責任を負って消えることだ。あるいは、暴走を始めた岡島が「狂った実行犯」としてすべてを泥沼に引きずり込んでもいい。

彼らが互いに疑い、憎み合い、共倒れしてくれれば、佐伯は「不運な投資家」として被害者面をしながら、悠々とこの事業から手を引くことができる。最初から、彼は誰も愛してなどいなかった。

一方、工場では岡島が、佐伯の残した毒に侵されていた。

モニターには、緩和措置の打ち合わせを終え、親密そうに工場を後にする蓮見と一条の姿が映っている。

「……一条さん。あなたは結局、父を死に追いやったあの男の隣で、女として幸せになりたいだけなのか」

岡島の手元には、彼が改ざんした最新の原材料リストがある。

蓮見が提案した「オーナーへの緩和措置」――そのしわ寄せは、すべて工場の原価率に跳ね返っていた。利益を維持するため、キャベツの比率はかつての半分以下になり、代わりに安価な植物性タンパクと化学調味料がその隙間を埋めている。

これはもはや「蓮見餃子」ではない。

彼がかつて内部告発してまで守ろうとした「食の安全」とは対極にある、まがい物だ。

「……俺だけが汚れている。俺だけが、あなたの嘘を守るために、地獄に足を突っ込んでいる……」

岡島は、自分がこれまで記録してきた、一条からの指示のやり取りをバックアップしたUSBメモリを強く握りしめた。

自分と彼女は「弱み」を握り合っている。そう信じることでしか、彼の崩壊しかけた精神は保てなかった。

だが、佐伯の言葉が呪いのようにリフレインする。

『彼女は喜んで君を切り捨てて、彼と一緒に逃げるんじゃないかな?』

「させない……。絶対に、そんなことはさせない……」

岡島の瞳に、どす黒い嫉妬の火が灯る。

彼は、自分が作り上げた「偽りの餃子」の山を見つめた。一条を自分だけのものにするためなら、この帝国ごと、蓮見を焼き尽くしてしまえばいい。

愛媛では、恵美が保全した「翠玉」という名の権利が、静かにその時を待っている。

高松では、佐伯が仕掛けた「総崩れのシナリオ」が、岡島の狂気という導火線に火をつけた。

蓮見という一人の職人を巡る「愛」と「憎」と「欲」は、もはや誰にも制御できない破滅の渦へと飲み込まれていく。

佐伯は、漆黒の外車のシートに深く身を沈め、手元のタブレットで「次」の事業計画書をめくっていた。

そこには『日本初上陸・南イタリアの伝統菓子スフォリアテッラ専門店』という文字が踊っている。すでに物件の目星はつけてあり、流行に敏感な若手パティシエも確保済みだ。

「……さて、潮時だな」

佐伯は、工場の煙突から立ちのぼる煙を、バックミラー越しに冷ややかに見つめた。

彼にとって「蓮見餃子」は、かつての白い鯛焼きやタピオカと同じ、消費され、捨てられるべき「流行(トレンド)」の一つにすぎない。ブームという名の巨大な波が引き始めた今、この場所に留まることは、彼にとって「損」以外の何物でもなかった。

彼は誰かを陥れようなどとは考えていない。そんなことに労力を使うのは時間の無駄だ。ただ、自分が一番高いところで利益を確定させ、波が完全に引く前に、この「泥舟」から飛び降りる。それだけが彼のルールだった。

(……滑稽だな。愛だの、憎しみだの、職人の魂だの)

視察室で見た三人の姿を思い出す。

復讐の刃を鈍らせ、仇であるはずの蓮見に(ほだ)されかけている一条。

その一条への歪んだ独占欲のために、自ら泥沼に潜っていく岡島。

そして、過去の栄光と偽りの成功にしがみつき、迫り来る崩壊から目を逸らしている蓮見。

彼らは皆、沈みゆく船の甲板で、必死に自分たちの「感情」という重荷を抱えて右往左往している。佐伯から見れば、それは生存本能を失った生き物の、ひどく無意味なダンスに見えた。

「しがみついていればいい。そのまま、一緒に沈めばいいんだ」

佐伯は、手元のスマートフォンで秘書に指示を出した。

「ハスミの持ち株、予定通り全売却の手続きを。……ああ、それから、新規事業のパリパリクレープ部門のプレスリリース、来週には打てるように進めてくれ」

スフォリアテッラにパリパリクレープ

またブームを作るか

彼の中に、蓮見たちを助けようという慈悲も、ましてやわざわざ破滅させてやろうという憎悪もない。ただ、ゴミ箱に放り込まれる直前の「残飯」を見るような、平坦な無関心があるだけだった。

「次は、甘いもので口直しといこうか」

佐伯は、次に流行らせる焼き菓子の、バターの香りとパリパリとした食感を想像し、満足げに目を細めた。

高松の街は、まだ猛暑の熱気に包まれていたが、佐伯の心の中にはすでに、次の「獲物」を狩るための、冷たく乾いたビジネスの風が吹き抜けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ