第20話 溶ける氷
佐伯が工場の視察室を去った後、一条は窓から見える彼の中型外車が遠ざかるのを、冷めた目で見送った。
(あの男、もう逃げる準備を始めているわね……)
一条は、佐伯がかつてタピオカや白い鯛焼きで何をしてきたかを知っている。ブームがピークを過ぎた瞬間に資金を引き揚げ、責任の所在を曖昧にしたまま「次の流行」へと乗り換える。その手口は鮮やかで、跡形もない。
彼女は、自分のデスクの奥に隠された一冊の黒いファイルに手を触れた。
そこには、この三年間、佐伯の指示で動いてきた金流の記録や、彼が法的に「責任者」として署名せざるを得なかった裏契約の写しが並んでいる。
「私にすべてを押し付けて消えられると思ったら大間違いよ、佐伯さん」
それは、もしもの時に自分を守り、佐伯を地獄へ道連れにするための、一条の「最後の切り札」だった。
◆
しかし、今の彼女を苦しめているのは、佐伯への警戒心ではなかった。
モニターに映る、憔悴した様子の蓮見だ。
「……一条さん。本当に緩和措置で、彼らは助かるだろうか。俺は、これ以上誰かが不幸になるのを見たくないんだ」
そう呟く蓮見の横顔に、かつて父が死の直前に見せた、あの「優しすぎる職人」の面影が重なる。
一条は、彼が苦しむ姿を、絶望する姿を、三年間ずっと夢に見てきたはずだった。彼がすべてを失い、路地裏の脂ぎった空気の中へ叩き落とされる瞬間こそが、自分の人生の完成だと思っていた。
(なのに……どうして、胸が痛いのよ)
一条は、自嘲気味に口角を上げた。
復讐の炎は、蓮見が「悪徳な経営者」である限り燃え続けていた。しかし、彼がかつての職人としての良心を取り戻そうと足掻き、自分を信じてくれたオーナーたちのために傷ついている姿を見て、彼女の心の中の氷が、静かに、しかし確実に溶け始めていた。
◆
「先生、……手はあるわ。まだ、終わらせはしない」
彼女の声は、自分自身に言い聞かせるように力強かった。
佐伯が資金を引き揚げ、ブームが去り、不祥事の火種が燻っているこの絶望的な状況。普通なら逃げ出すべきこの泥舟を、どうすれば立て直せるのか。
彼女は、佐伯をハメるための切り札とは別に、もう一つの可能性を探り始めた。
それは、拡大路線を捨て、不純物を排し、再び「小さな、誠実な店」へと回帰させるという、茨の道だった。
一条は、自分が今、かつての父を救えなかった後悔を、この蓮見という男を救うことで埋めようとしていることに気づいていた。
彼女の復讐は、今や「救済」という名の、歪で、切ない情熱へと姿を変えつつあった。
◆
愛媛では、恵美が保全した権利が、蓮見の再起のための「器」として完成している。
そして高松では、一条が佐伯という毒から彼を守るための「盾」になろうとしている。
二人の「えみ」が、それぞれの場所で、一人の男を地獄から引き揚げようと動き始めていた。




