第21話 解体
「……先生、落ち着いてください」
タワーマンションの最上階、静寂を切り裂いたのは蓮見の怒号だった。
佐伯が「蓮見餃子」の経営権を、東京の大手投資ファンドへ一括売却しようとしている。その情報は、もはや隠しきれない事実として高松の本部を揺らしていた。
「俺を、俺の店を、ただの転売の道具だと思っていたのか! あの男、あれほど『一緒に夢を見よう』と言っておきながら!」
蓮見は、大理石のテーブルを激しく叩いた。彼にとって「売却」は、自分の分身を競売にかけられるも同然の屈辱だった。
一方、一条の瞳には、怒りよりも鋭い、冷徹な決意が宿っていた。
(逃がさないわよ、佐伯さん。美味しいところだけ食べて、泥舟を他人に押し付けて高みの見物なんて、させるはずがない)
一条は、震える手でマセラティのキーを握りしめている蓮見の背中を、優しく、しかし確実に操るように抱き寄せた。
「先生……。私が、すべてを終わらせます。佐伯さんには、それ相応の報いを受けてもらいましょう」
◆
その夜、一条は工場の奥深くにいる岡島を呼び出した。
薄暗い事務所で、彼女は岡島の目をじっと見つめ、その震える指先に自分の手を重ねた。
「岡島さん……。あなたにしか頼めないの。佐伯さんは、先生と私を捨てて逃げようとしているわ。彼を止められるのは、あなたの持っている『あのデータ』だけ」
「……佐伯さんを、告発しろと言うんですか。それは……一条さん、あなたも無事では済まない」
「構わない。あの男にすべてをなすりつけて、私たちは、先生を守るための盾になるの。……やってくれるわね?」
岡島は、一条の潤んだ瞳に吸い込まれるような錯覚を覚えた。彼にとって、これは「不正の告発」ではない。一条と自分を繋ぐ、永遠の契約だった。
◆
翌朝。
インターネット上の匿名掲示板、そして主要な経済紙の記者たちに、一通の膨大な内部資料が届いた。
『ハスミ・フードシステムにおける、佐伯専務主導の会計不正と、品質偽装の強要に関する全記録』。
送信元は不明。だが、そこには岡島が記録し続けてきた、佐伯の「指示」を巧妙に編纂した音声やメールが並んでいた。
ニュースは一瞬で全国を駆け巡った。「蓮見餃子、組織ぐるみの隠蔽」「経営陣による私物化」。
その見出しが躍った瞬間、佐伯が交渉を進めていた売却話は一瞬で霧散した。価値が暴落した「事故物件」を買い取るほど、投資家たちは甘くない。
◆
「……何をした、えみり」
本部の専務室で、佐伯は凍りついた声で呟いた。
目の前には、役員会からの即時解任通知と、損害賠償を求める訴状が置かれている。彼は、生涯で初めて「逃げ遅れた」のだ。
一条は、デスク越しに佐伯を見据えた。
「お互い様でしょう。あなたは私たちを使い捨てようとした。私は、それを阻止しただけ」
「……ふん。泥舟を沈めて、自分も溺れる道を選ぶとはな。だが、俺をただでクビにできると思うなよ」
佐伯の瞳から、ビジネスマンとしての理性が消えた。そこにあるのは、獲物を奪われた野獣の、剥き出しの執念だった。
「君は、自分が何に火をつけたか分かっていないようだ。俺の人生を汚した代償は、高くつくぞ。一条……いや、えみり」
佐伯は静かに部屋を去った。その背中に、一条は言いようのない悪寒を感じた。
復讐は果たした。佐伯は社会的に死んだ。だが、彼女の胸にあるのは勝利の悦びではなく、底知れない闇への恐怖だった。
高松の街に、不穏な風が吹き荒れる。
佐伯の「仕返し」が、冷徹な嫌がらせを超え、物理的な凶器となって一条に迫ろうとしていることに、彼女はまだ気づいていなかった。
◆
佐伯の失脚は、勝利のファンファーレではなく、帝国の「解体」を告げる弔鐘だった。
不祥事と偽装の事実が明るみに出た「蓮見餃子」に、もはや再起の道は残されていなかった。ブランド価値は失墜し、資金繰りは急速に悪化。銀行は一斉に掌を返し、一時は奪い合いになった経営権も、今は誰も触れたがらない「事故物件」と化していた。
「……先生、これが最後の書類です」
タワーマンションの最上階。一条が差し出したのは、私財を投じて負債を整理するための「任意売却」と、役員辞任の届出だった。
窓の外に広がる高松の夜景は、三年前と変わらず美しいが、今の蓮見にはそれが他人事のように遠く見えた。
愛車マセラティはすでに業者の手に渡り、この部屋も数日後には明け渡さなければならない。カシミアのスーツも、クロコの靴も、すべては賠償金と精算費用のために消えていった。
「……一条さん。君はどうなるんだ」
「私は……グループ本社へ呼び戻されます。今回の件の責任を取り、地方の関連子会社へ出向、あるいは閑職へ回されることになるでしょう」
一条の瞳には、かつての復讐の炎も、蓮見への情熱も、今は見当たらなかった。ただ、一人のサラリーマンとして、巨大な組織の論理に回収されていく諦念だけが漂っていた。
彼女は「佐伯を道連れにした功労者」ではなく、「不祥事を防げなかった不適格な管理職」として、本社という名の冷たい墓場に送られるのだ。
◆
そして、最も残酷な通告を受けたのは、工場の奥で手を汚し続けた岡島だった。
「……懲戒解雇? 冗談じゃない、俺がどれだけ一条さんのために、この店のために……!」
工場の事務所で、彼は本部から届いた解雇通知書を握り潰した。
一条を守るためにデータを改ざんし、佐伯を告発するための汚れ役を引き受けた彼。だが、新しく入った清算専門の管財人にとって、彼は「不正の実務に最も深く関与した、解雇されるべき最優先の対象」でしかなかった。
退職金も出ず、業界のブラックリストに載ったも同然の解雇。
一条は、彼に会いに行こうとはしなかった。いや、行くことができなかったのだ。
彼を頼り、彼を利用し、彼を闇に突き落とした自分に、かける言葉など一つも持ち合わせていない。一条は最後まで「本社の人間」として、岡島を切り捨てざるを得なかった。
岡島は、誰もいなくなった深夜の工場で、独り立ち尽くしていた。
かつての正義感も、一条への執着も、今はただ、自分が「使い捨ての駒」にすぎなかったという虚しい事実の前に霧散していた。
「……俺は、何のために……」
暗い厨房に、岡島の嗚咽だけが響いた。
◆
数日後。
蓮見は、手提げ鞄一つを持って、タワーマンションのゲートを出た。
エントランスには、かつてのように彼を「先生」と呼ぶ記者は一人もいない。通り過ぎる人々も、一世を風靡した「餃子王」が、この冴えない中年男だとは気づきもしない。
手元に残ったのは、数万円の現金と、使い古した包丁一本だけだった。
「……ふふ、何もないな」
蓮見は、誰もいない歩道で自嘲気味に笑った。
かつてあれほど欲しがった富も、名声も、一条というミューズも、すべては幻影だった。黄金の檻が壊れた今、彼を待っているのは、自由という名の過酷な荒野だけだ。
高松の街に、夕闇が迫る。
すべてを失い、名前さえも汚れた男。
蓮見は、重い足取りで歩き出した。向かう先などない。ただ、潮の香りがする方へと、彷徨うように歩き続けるしかなかった。




