第22話 潮の匂い
本社への帰還を翌日に控えた、最後の日。一条は、高松の喧騒から離れた海沿いの空き地に立っていた。
「……最後にお話ししたいことがあります。一条さん。あなたに教えられた『本当の清算』について」
岡島から届いたそのメッセージは、これまでの狂気を感じさせない、ひどく静かなものだった。怪我一つない、しかし抜け殻のような彼を、組織の論理で切り捨ててしまったという罪悪感が、一条の足をその場所へと向かわせた。
「岡島さん……」
待ち合わせていた中古のセダンの助手席に乗り込むと、岡島は何も言わずに車を出した。彼の横顔は、まるで精巧な蝋人形のように無表情だった。
◆
「……一条さん。あなたは僕を『駒』としてしか見ていなかった。でも、僕はあなたのために、この手で証拠を捏造し、佐伯を地獄へ送った。それは、僕なりの『愛』だったんです」
「分かっているわ。感謝している。本社に戻ったら、あなたの再就職先を……」
「再就職?」
岡島が、乾いた声で笑った。車は、封鎖されたはずの古いフェリー乗り場へと速度を上げて突っ込んでいく。
「いらないんですよ、そんなものは。僕はもう、汚れてしまった。あなたのせいで。……でも、嬉しいんです。こうして最後に、あなたを独り占めできている」
一条が異変に気づいた時には、車はすでに防波堤の端を超えていた。
「岡島さん、やめて! 止まって!」
「……逃がしませんよ、一条さん。組織も、佐伯も、蓮見も関係ない。深い海の底なら、誰も僕たちを邪魔できない。……そこで、ずっと一緒にいましょう」
岡島の瞳には、一条がかつて見たことのない、澄み切った狂気が宿っていた。彼にとって、これは心中ではなく、一点の曇りもない「救済」だった。
◆
「嫌……! 離して!」
一条の手がドアノブにかけられた瞬間、視界が大きく傾いた。重力から解放された浮遊感のあと、鼓膜を突き破るような衝撃音が響く。フロントガラスの向こう側から、瀬戸内海の、重く冷たい濁流が一気に押し寄せてきた。
「……ああ、……綺麗だ……」
浸水する車内、岡島は抵抗する一条の腕を、驚くほど優しい力で、しかし決して逃げられない強さで抱きしめた。水圧で歪む車体の中で、二人の体はゆっくりと、光の届かない海底へと沈んでいく。
一条の視界が次第に暗転していく中、最後に脳裏をよぎったのは、復讐を誓ったあの日でもなく、成功を収めたタワーマンションでもなく、かつて父と食べた、あの湯気の立つ餃子の味だった。
◆
翌朝。ニュースは、高松港近くで発見された転落車両について短く報じた。
「解雇された元社員と、グループ本部の女性社員が心中を図ったとみられる」――。
すべては「不祥事の後始末」という言葉の中に埋もれ、巨大な組織はそれを不慮の事故として処理した。
その頃。
一足の古びた革靴が、砂浜を歩いていた。蓮見だった。彼は、ニュースを知るよしもなく、ただ遠くの海を見つめて立ち尽くしていた。
黄金の檻は、一人の男の狂気によって、最も残酷な形で粉じた。愛も、憎しみも、復讐も、すべては紺碧の海の中に溶けて消えた。
(……えみり)
蓮見は、自分でもなぜその名を呟いたのか分からなかった。ただ、心に空いた巨大な穴を、瀬戸内海の冷たい風だけが通り抜けていった。
◆
本部ビルのエントランスは、人影もなく静まり返っていた。
蓮見は、差し押さえを待つばかりの薄暗いロビーで、手提げ鞄一つを抱えて立ち尽くしていた。そこへ、足を引きずるような、ひどく重い靴音が響いてきた。
現れたのは、佐伯だった。
だが、そこにはかつての「流行の仕掛け人」の面影は微塵もなかった。ネクタイは引きちぎられ、高級なスーツは泥に汚れ、何よりその瞳には、すべてを失った男特有の、どす黒い憎悪が渦巻いていた。
「……佐伯さん。どうしたんだ、その格好は」
蓮見は困惑して声をかけた。
「……どうした、だと?」
佐伯が、喉の奥で獣のような声を漏らした。
「蓮見……貴様のせいで、俺のキャリアは終わった。役員会からは解任、全資産は凍結、同業者からは唾を吐きかけられている。……クレープだの、りんご飴だの……もう次はないんだよ、俺には!」
◆
「何の話だ……。俺はただ、君に言われた通りに……」
「白々しいことを抜かすな! 貴様が、あの女と男をそそのかして俺を売ったんだろうが!」
佐伯が、蓮見の胸ぐらを激しく掴み、壁に叩きつけた。
「……女? 男って、誰のことだ」
「とぼけるな! 一条と岡島だよ! あの二人が、俺の不正の証拠をマスコミにバラ撒いたんだ。……そして今、あの二人は海に沈んだ。車ごと突っ込んで、心中したんだよ!」
蓮見の頭の中で、視界が真っ白に弾けた。
「……心中? 一条さんと、岡島さんが……? 何かの間違いだ。そんな、そんなはずは……」
「間違いなものか! さっきのニュースを見てなかったのか。……なあ、蓮見。貴様、最初からこれが狙いだったのか? 俺を社会的に抹殺するために、あの二人を駒に使って、最後は口封じに消したのか?」
「違う……俺は、何の事か全然……一条さんは、本社に戻るって……」
「……まだそんな面をするか」
佐伯は、吐き捨てるように蓮見を放り出した。
「一条はな、貴様への復讐のために俺と組んだんだ。だが、貴様の中途半端な善意に絆され、計画を狂わせた。……岡島は、そんな彼女を独占したくて狂い、貴様が守れなかった偽装の山を一人で背負わされて絶望した。……結局、貴様が、あの二人を殺したんだよ、蓮見」
◆
蓮見は言葉を失い、冷たい床に膝をついた。
「貴様の手は、餃子の油で汚れているだけじゃない。……あの二人の血で、真っ赤に染まっているんだ。……地獄へ落ちろ、人殺し」
佐伯は、力なく笑いながら闇の中へと去っていった。かつての帝王の背中は、ひどく小さく、惨めだった。
静まり返ったビルの前で、蓮見は自分の手のひらを見つめた。街灯に照らされたその手は、震えが止まらない。
二人は死んだ。佐伯は壊れた。
そして自分だけが、何一つ知らぬまま、二人の命という、あまりに重すぎる負債を背負わされて、この地に残された。
(……俺が、二人を殺したのか……?)
鞄からこぼれ落ちた使い古した包丁が、コンクリートの上で虚しい音を立てた。
高松の海から吹く風が、蓮見の頬を叩く。
その風は、一条と岡島が最後に吸い込んだ、冷たくて重い、潮の香りがした。




