表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/57

第7話 着せ替えられた人形

通販の売り上げは、連日サーバーがダウンするほどの狂乱を見せていた。

蓮見の個人口座には、かつての一年分の利益が、たった一日で振り込まれるようになっていた。

「これで、恵美もわかってくれる」

蓮見は、独断で高松市内に新しく建った最高級タワーマンションの最上階を契約した。

「不自由な暮らしをさせて悪かったな。これからは、あんな狭い路地裏で油にまみれなくていいんだ」

そんな言葉とともに、契約書の写しを彼女に見せる瞬間を夢見ていた。それが、彼にとっての「償い」であり「正解」だった。

そんな折、佐伯がいつになく神妙な面持ちでセントラルキッチンを訪れた。

「蓮見先生……実は、私、本社への転勤が決まりました。このプロジェクトの成功が評価され、異動と共に出世することになりまして」

「佐伯さんが、いなくなるのか?」

蓮見は、杖を失ったような不安に襲われた。自分の「価値」を誰よりも認めてくれたのは彼だった。

「ご安心ください、先生。後任には、わが社で最も優秀な人間を手配しました。私以上に、先生のブランドを大きく育ててくれるはずです」

佐伯が去った数日後。

蓮見の前に現れたのは、タイトなスーツを着こなし、凛とした空気を纏った女性だった。

「初めまして。後任を務めさせていただきます、一条です」

彼女は佐伯のような「熱い信者」の振りはしなかった。

「先生の技術、そしてこの事業のポテンシャル。すべてデータで拝見しました。素晴らしいです。ただ、今のままでは『地方の成功例』で終わってしまいます。もっと洗練された、都会的なブランディングが必要です」

彼女の言葉は、冷たく、しかし知的な響きを持って蓮見の耳に届いた。

一条は、佐伯が行っていたような泥臭い接待ではなく、より「洗練された誘惑」を提示した。

「先生、今のスーツや時計、少し古臭いですね。一流のブランドには、一流の装いが必要です。今夜、私のなじみのブティックを貸し切りにさせました。コーディネートさせていただけますか?」

仕事が完璧で、自分を「一流の男」として形作ろうとしてくれる一条。

添加物で麻痺した舌が、家庭の味を拒むようになったように。

蓮見の心もまた、小言を言う「路地裏の妻」よりも、自分を美しく飾り立ててくれる「仕事の出来る女」へと傾き始めていた。

「タワーマンションへ引っ越す。一条さん、内装の相談にも乗ってくれるかな」

「もちろんです、先生。あなたに相応しい、最高の空間にしましょう」

蓮見は気づいていなかった。

佐伯が「システム」を構築したのだとしたら、一条は蓮見という人間そのものを「商品」として磨き上げ、彼の生活から「路地裏の生活臭」を、そして「恵美」を、完全に排除しようとしていることに。

セントラルキッチンが拡大し、従業員が五十人を超えた頃、製造現場の責任者として一人の男が送り込まれてきた。

「新しく工場長に任ぜられました、岡島です」

岡島は、大手食品メーカーで長年品質管理を担ってきた、叩き上げの技術者だった。蓮見が監修室で一条とワイングラスを傾けている時も、彼は常に真っ白な防塵服に身を包み、鋭い目でラインを見つめていた。

岡島は、いわゆる「融通の利かない男」だった。

「一条さん。Bラインの添加物の配合比率ですが、法的な許容範囲内とはいえ、これでは素材の風味が死にます。蓮見先生の本来のこだわりから逸脱しているのではないですか?」

現場で一条に食い下がる岡島の声は、常に冷静で、それゆえに一条のプライドを逆なでした。しかし、一条はそんな彼を冷たくあしらうことはしなかった。むしろ、その頑ななまでの正義感と仕事への真摯さに、彼女は微かな、しかし特別な信頼を寄せているようだった。

「岡島さん、これは『商品』なの。安定した品質を全国に届けるのが私たちの仕事よ」

一条が至近距離で岡島をたしなめる。その時、岡島の硬い表情が、ほんの一瞬だけ崩れる。

岡島は、一条に惹かれていた。

都会的で、切れ味の鋭い彼女。自分にはない冷徹なまでの強さ。

だが、その彼女が、監修室で蓮見に向ける「仕事を超えた甘い視線」を、岡島は見逃してはいなかった。

その日の夜。蓮見はタワーマンションの契約書を鞄に入れ、一条と共に高級セダンに乗り込もうとしていた。

「先生、お疲れ様です。お送りします」

一条がドアを開ける。その洗練された所作に、蓮見は自尊心をこれ以上ないほど満たされていた。

「ああ。一条さん、あの岡島という男。少し現場の理屈が過ぎるんじゃないか? 監修は俺だ。あいつに口を出される筋合いはない」

岡島は、工場の喧騒の中に溶け込むのが得意だった。

彼の防塵服はいつも驚くほど白く、その足音は機械の唸りにかき消されるほど静かだ。

蓮見や一条が華やかな「表の戦略」を練っている間、彼はただ、コンベアを流れる無機質な白い塊を見つめ続けている。

「岡島さん、今日も遅いんですね」

一条が監修室から降りてきて声をかける。その声に、岡島は手元の温度計を離さずに、短く「ええ」とだけ答えた。

彼は彼女の顔を見ない。見れば、自分の正義感が揺らぐことを知っていたからだ。彼女の纏う洗練された空気は、この油と粉にまみれた現場には美しすぎた。

一条は、そんな岡島の背中に、試作段階の新しい添加物の配合表を置く。

「これ、先生の承認は得ています。明日からラインに乗せて。……信頼しているわよ、岡島さん」

彼女の指先が、ほんの一瞬、岡島の肩をかすめる。

岡島はその場所が熱くなるのを感じたが、彼女が去った後、配合表を見つめる彼の目は氷のように冷たかった。

岡島は知っている。蓮見が最近、工場の餃子を「食べる」のではなく、一条との会食の合間に「眺める」だけになっていることを。

その日の深夜。

蓮見は高松の路地裏、古びた自宅の食卓に、一通の重厚な封筒を置いた。

「恵美。……これだ」

封筒の中から滑り出たのは、タワーマンションのパンフレットと、既に蓮見の実印が捺された契約書だった。

「見てみろ。地上三十階。ここからなら、高松の街が箱庭みたいに見えるぞ。もう、朝早くからキャベツの泥を洗う必要も、換気扇の油汚れを気にする必要もないんだ」

蓮見の言葉は、まるで自分を鼓舞する演説のようだった。

しかし、恵美はパンフレットに目を落とすことさえしなかった。彼女が見つめていたのは、夫の袖口だった。

「あなた、その匂い、何?」

「え?」

蓮見が自分の腕を嗅ぐ。一条と選んだ高級なシャツからは、残り香のような都会の香水の匂いが微かに漂っていた。

「……仕事の打ち合わせで、少し良い店に行っただけだ。それより、このマンションの話を……」

「いいえ、いいわ」

恵美は椅子を引き、静かに立ち上がった。

「私は行かない。……あなたは、その空の上の城で、自分の好きなものを好きなだけ食べればいい。添加物で飾られた餃子も、その香水の匂いも、全部持っていって」

「恵美! なぜわからないんだ! これは成功の証なんだぞ!」

「成功?」

恵美は、悲しいほど透き通った目で蓮見を見た。

「今のあなたは、私には何も見えない。……ただの、誰かに着せ替えられた人形に見えるわ」

恵美はそう言うと、初めて蓮見を一人残して、厨房へと降りていった。

暗い厨房で、彼女は一人、明日の仕込みのためにキャベツを手に取る。

泥のついた、重たくて瑞々しい、本物のキャベツだ。

食卓で、蓮見は一人、豪華なパンフレットを見つめていた。

『あいつも、実際に住めばわかるはずだ。この場所が、どれだけ素晴らしいか……。俺は間違っていない』

彼はそう確信しようとしたが、舌の奥に残る「嘘の甘み」が、ひどく喉を乾かせた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ