第7話 着せ替えられた人形
通販の売り上げは、連日サーバーがダウンするほどの狂乱を見せていた。
蓮見の個人口座には、かつての一年分の利益が、たった一日で振り込まれるようになっていた。
「これで、恵美もわかってくれる」
蓮見は、独断で高松市内に新しく建った最高級タワーマンションの最上階を契約した。
「不自由な暮らしをさせて悪かったな。これからは、あんな狭い路地裏で油にまみれなくていいんだ」
そんな言葉とともに、契約書の写しを彼女に見せる瞬間を夢見ていた。それが、彼にとっての「償い」であり「正解」だった。
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そんな折、佐伯がいつになく神妙な面持ちでセントラルキッチンを訪れた。
「蓮見先生……実は、私、本社への転勤が決まりました。このプロジェクトの成功が評価され、異動と共に出世することになりまして」
「佐伯さんが、いなくなるのか?」
蓮見は、杖を失ったような不安に襲われた。自分の「価値」を誰よりも認めてくれたのは彼だった。
「ご安心ください、先生。後任には、わが社で最も優秀な人間を手配しました。私以上に、先生のブランドを大きく育ててくれるはずです」
◆
佐伯が去った数日後。
蓮見の前に現れたのは、タイトなスーツを着こなし、凛とした空気を纏った女性だった。
「初めまして。後任を務めさせていただきます、一条です」
彼女は佐伯のような「熱い信者」の振りはしなかった。
「先生の技術、そしてこの事業のポテンシャル。すべてデータで拝見しました。素晴らしいです。ただ、今のままでは『地方の成功例』で終わってしまいます。もっと洗練された、都会的なブランディングが必要です」
彼女の言葉は、冷たく、しかし知的な響きを持って蓮見の耳に届いた。
一条は、佐伯が行っていたような泥臭い接待ではなく、より「洗練された誘惑」を提示した。
「先生、今のスーツや時計、少し古臭いですね。一流のブランドには、一流の装いが必要です。今夜、私のなじみのブティックを貸し切りにさせました。コーディネートさせていただけますか?」
仕事が完璧で、自分を「一流の男」として形作ろうとしてくれる一条。
添加物で麻痺した舌が、家庭の味を拒むようになったように。
蓮見の心もまた、小言を言う「路地裏の妻」よりも、自分を美しく飾り立ててくれる「仕事の出来る女」へと傾き始めていた。
「タワーマンションへ引っ越す。一条さん、内装の相談にも乗ってくれるかな」
「もちろんです、先生。あなたに相応しい、最高の空間にしましょう」
蓮見は気づいていなかった。
佐伯が「システム」を構築したのだとしたら、一条は蓮見という人間そのものを「商品」として磨き上げ、彼の生活から「路地裏の生活臭」を、そして「恵美」を、完全に排除しようとしていることに。
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セントラルキッチンが拡大し、従業員が五十人を超えた頃、製造現場の責任者として一人の男が送り込まれてきた。
「新しく工場長に任ぜられました、岡島です」
岡島は、大手食品メーカーで長年品質管理を担ってきた、叩き上げの技術者だった。蓮見が監修室で一条とワイングラスを傾けている時も、彼は常に真っ白な防塵服に身を包み、鋭い目でラインを見つめていた。
岡島は、いわゆる「融通の利かない男」だった。
「一条さん。Bラインの添加物の配合比率ですが、法的な許容範囲内とはいえ、これでは素材の風味が死にます。蓮見先生の本来のこだわりから逸脱しているのではないですか?」
現場で一条に食い下がる岡島の声は、常に冷静で、それゆえに一条のプライドを逆なでした。しかし、一条はそんな彼を冷たくあしらうことはしなかった。むしろ、その頑ななまでの正義感と仕事への真摯さに、彼女は微かな、しかし特別な信頼を寄せているようだった。
「岡島さん、これは『商品』なの。安定した品質を全国に届けるのが私たちの仕事よ」
一条が至近距離で岡島をたしなめる。その時、岡島の硬い表情が、ほんの一瞬だけ崩れる。
岡島は、一条に惹かれていた。
都会的で、切れ味の鋭い彼女。自分にはない冷徹なまでの強さ。
だが、その彼女が、監修室で蓮見に向ける「仕事を超えた甘い視線」を、岡島は見逃してはいなかった。
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その日の夜。蓮見はタワーマンションの契約書を鞄に入れ、一条と共に高級セダンに乗り込もうとしていた。
「先生、お疲れ様です。お送りします」
一条がドアを開ける。その洗練された所作に、蓮見は自尊心をこれ以上ないほど満たされていた。
「ああ。一条さん、あの岡島という男。少し現場の理屈が過ぎるんじゃないか? 監修は俺だ。あいつに口を出される筋合いはない」
岡島は、工場の喧騒の中に溶け込むのが得意だった。
彼の防塵服はいつも驚くほど白く、その足音は機械の唸りにかき消されるほど静かだ。
蓮見や一条が華やかな「表の戦略」を練っている間、彼はただ、コンベアを流れる無機質な白い塊を見つめ続けている。
「岡島さん、今日も遅いんですね」
一条が監修室から降りてきて声をかける。その声に、岡島は手元の温度計を離さずに、短く「ええ」とだけ答えた。
彼は彼女の顔を見ない。見れば、自分の正義感が揺らぐことを知っていたからだ。彼女の纏う洗練された空気は、この油と粉にまみれた現場には美しすぎた。
一条は、そんな岡島の背中に、試作段階の新しい添加物の配合表を置く。
「これ、先生の承認は得ています。明日からラインに乗せて。……信頼しているわよ、岡島さん」
彼女の指先が、ほんの一瞬、岡島の肩をかすめる。
岡島はその場所が熱くなるのを感じたが、彼女が去った後、配合表を見つめる彼の目は氷のように冷たかった。
岡島は知っている。蓮見が最近、工場の餃子を「食べる」のではなく、一条との会食の合間に「眺める」だけになっていることを。
◆
その日の深夜。
蓮見は高松の路地裏、古びた自宅の食卓に、一通の重厚な封筒を置いた。
「恵美。……これだ」
封筒の中から滑り出たのは、タワーマンションのパンフレットと、既に蓮見の実印が捺された契約書だった。
「見てみろ。地上三十階。ここからなら、高松の街が箱庭みたいに見えるぞ。もう、朝早くからキャベツの泥を洗う必要も、換気扇の油汚れを気にする必要もないんだ」
蓮見の言葉は、まるで自分を鼓舞する演説のようだった。
しかし、恵美はパンフレットに目を落とすことさえしなかった。彼女が見つめていたのは、夫の袖口だった。
「あなた、その匂い、何?」
「え?」
蓮見が自分の腕を嗅ぐ。一条と選んだ高級なシャツからは、残り香のような都会の香水の匂いが微かに漂っていた。
「……仕事の打ち合わせで、少し良い店に行っただけだ。それより、このマンションの話を……」
「いいえ、いいわ」
恵美は椅子を引き、静かに立ち上がった。
「私は行かない。……あなたは、その空の上の城で、自分の好きなものを好きなだけ食べればいい。添加物で飾られた餃子も、その香水の匂いも、全部持っていって」
「恵美! なぜわからないんだ! これは成功の証なんだぞ!」
「成功?」
恵美は、悲しいほど透き通った目で蓮見を見た。
「今のあなたは、私には何も見えない。……ただの、誰かに着せ替えられた人形に見えるわ」
恵美はそう言うと、初めて蓮見を一人残して、厨房へと降りていった。
暗い厨房で、彼女は一人、明日の仕込みのためにキャベツを手に取る。
泥のついた、重たくて瑞々しい、本物のキャベツだ。
食卓で、蓮見は一人、豪華なパンフレットを見つめていた。
『あいつも、実際に住めばわかるはずだ。この場所が、どれだけ素晴らしいか……。俺は間違っていない』
彼はそう確信しようとしたが、舌の奥に残る「嘘の甘み」が、ひどく喉を乾かせた。




