第6話 麻痺した舌
セントラルキッチンの稼働から数ヶ月。事業は順調に見えたが、佐伯の顔には影が差していた。
ある夜、佐伯は試作室に蓮見を呼び出し、深刻な面持ちで切り出した。
「蓮見先生……実は、大きな壁にぶつかっています。やはり『日持ち』です」
佐伯は、解凍された餃子の餡を指差した。
「蓮見先生のレシピは繊細すぎます。冷凍して時間が経つと、どうしても野菜の水分が出て味がぼやけてしまう。これでは、遠方の店舗へ届ける頃には『ひまわり食堂』で見せたあの味は維持できません。……そこで、少しだけ、添加物の力を借りたいんです」
「添加物だと?」
蓮見の表情が険しくなった。
「冗談じゃない。国産野菜の自然な味だけで勝負するのが俺の、いや『蓮見餃子』のプライドだ。そんな不自然なもの、入れるわけにはいかない」
「もちろん、お気持ちは分かります」
佐伯は穏やかに頷き、あらかじめ用意していた二つの皿を差し出した。
「ですが、一度だけ、これをお試しいただけませんか? Aは先生の従来のレシピを冷凍したもの。Bは、私が提案する、最小限の調整を施したものです。……味覚の王である先生の舌で、ジャッジしていただきたい」
蓮見は鼻で笑いながら、箸を取った。
(俺の舌を誰だと思っている。混ぜ物など、一口で暴いてやる)
まずAを食べる。確かに、冷凍の過程でキャベツの甘みが抜け、どこか水っぽい。
次にBを口に運んだ。
その瞬間、蓮見の目に驚色が走った。
「……っ!」
旨味が、爆発するように舌の上で広がった。キャベツの甘みは生の状態よりも強調され、肉の脂には鮮烈なコクがある。喉を通った後も、心地よい余韻がいつまでも消えない。
「どうですか、先生」
「……うーん。これは、凄いな。俺が作るものよりも、旨味と甘みが……はっきりと際立っている」
「最新の技術です。先生のこだわりを『補強』したに過ぎません。これなら、全国のどこへ届けても、客は『これこそが本物だ』と感動するはずです」
蓮見は、皿に残ったBの餃子を見つめた。
科学で作られた「完璧な正解」が、自分の長年の修行を嘲笑っているかのような、奇妙な敗北感。だが同時に、この圧倒的な旨味があれば、自分の帝国は盤石になるという誘惑に勝てなかった。
「……わかった。これで行こう」
◆
その日から、蓮見の「監修」作業は、新しく開発される添加物の比率をチェックすることが主となった。
「もう少し甘みを強く」「この後味を引く感じを足してくれ」
連日、高濃度の旨味成分が含まれた試作。そして夜は、佐伯が用意する刺激の強い高級中華や、芳醇すぎるビンテージワインの接待。
ある朝、蓮見は厨房で、恵美が朝食に作ったいつもの味噌汁を啜り、眉をひそめた。
「……恵美。今日の味噌汁、出汁を入れ忘れたんじゃないか?」
「えっ? いつも通り、丁寧に煮干しで取ったわよ」
恵美は不思議そうに蓮見を見た。
蓮見は、自分の舌を転がした。
繊細な出汁の味が、全く感じられない。ただの温かい水のようだ。
だが彼は、それを「妻の腕が落ちたせいだ」と決めつけ、再びセントラルキッチンへと向かった。
彼の舌は、すでに「嘘の味」に飼い慣らされ、麻痺し始めていた。
真実のキャベツの甘みを知る唯一のセンサーが、音を立てずに壊れていくことに、彼はまだ気づいていなかった。
◆
セントラルキッチンの稼働から半年。事業の拡大は、佐伯が描いたシナリオ通り、いや、それ以上のスピードで進んでいた。
ある日の夕方、本部の役員室。部長が窓の外を見つめながら、背後で控える佐伯に短く告げた。
「佐伯。……そろそろ、いいんじゃないか。機は熟した」
「はい。準備は整っております」
佐伯の鞄には、またしてもあの分厚い契約書が忍ばされていた。しかし、前回のものとは重みが違う。そこには『全国チェーン展開』、そして『ECサイト(通販)への全面参入』という、巨大な富の地図が記されていた。
◆
その夜、蓮見は佐伯に連れられ、ホテルの最上階にあるバーを訪れていた。
「蓮見先生、いよいよです。全国の食卓に、あなたの名前が届く日が来ました」
佐伯が差し出した契約書を、蓮見は高級な万年筆を弄びながら眺めた。
「全国……。通販もか」
「ええ。もう『ひまわり食堂』のような一軒一軒の付き合いではありません。システムが、あなたの味を全国へ運びます。もちろん、それに伴うロイヤリティは、今の比ではありません」
蓮見の頭の隅に、一瞬だけ、恵美の顔が浮かんだ。
以前の彼なら、「妻に相談してから」と言っただろう。しかし、今の彼は違う。
添加物の効いた刺激的な味に舌を飼い慣らされ、高級車と贅沢なもてなしに身を置くうちに、彼は「自分一人の決断で世界を動かしている」という万能感に支配されていた。
それに何より、彼は知ってしまったのだ。
早起きしてキャベツを刻まなくても、指を油で汚さなくても、自分の「監修」という印鑑一つで、以前の何百倍もの金が動く快感を。
一度「楽」を覚えてしまった体は、もうあの蒸せ返るような厨房の暑さには戻れない。
「……わかった。進めてくれ」
「奥様には、お話しにならなくてよろしいのですか?」
佐伯の問いに、蓮見は鼻で笑った。
「あいつも納得してる。……いや、あいつの承諾なんて、もう必要ない。これは『蓮見餃子』というブランドの、当然の進化なんだからな」
その言葉は、自分に言い聞かせているようでもあった。
契約書に署名する蓮見の手は、もう以前のような職人の震えはなかった。ただ、傲慢な力強さでペンを走らせる。
◆
同じ頃、路地裏の店を守る恵美は、届いたばかりのセントラルキッチン製の餃子を、一人で試食していた。
「……なに、これ」
一口食べて、彼女は絶句した。
舌を刺すような人工的な甘み。喉の奥にへばりつくような不自然な旨味。
かつて二人で農家を歩き回り、泥のついたキャベツの芯をかじって「これだね」と笑い合った、あの清々しい野菜の気配は、もうどこにも残っていなかった。
「あなた、本当にこれでいいの?」
彼女の声は、誰にも届かずに消えた。
◆
契約を終えた帰り道。佐伯の用意したハイヤーの窓から、いつもの路地裏の入り口が見えた。
古びた看板、湿ったアスファルトの匂い。
つい半年前まで、そこが蓮見の宇宙のすべてだった。しかし今の彼には、その入り口がひどく狭く、汚らしく感じられた。
ハイヤーを降りて店に入ると、恵美がちょうどカウンターを拭き上げているところだった。
「おかえり。……また佐伯さんと会ってたの?」
「ああ。今後の事業計画の打ち合わせだ。……恵美、話がある」
蓮見は、ネクタイを緩めながら、自分の家の質素な椅子に不満げに腰を下ろした。
「いよいよ、全国展開と通販を始める。もう契約は済ませてきた」
恵美の手が、ぴたりと止まった。
「……相談もなしに?」
「相談したところで、お前は反対するだけだろ。いいか、これはチャンスなんだ。もう俺たちは、朝から晩までここで粉にまみれる必要はない。これからは『監修』として、名前と知恵を貸すだけで、今の何十倍もの稼ぎが入るんだ」
蓮見は、自分の腕時計をチラリと見た。
「一度楽を覚えれば、もう戻れないぞ。お前だって、いつまでも油汚れを気にする生活は嫌だろう?」
恵美は、夫の言葉を信じられないという顔で見つめた。
「あなた、本当に自分の言ってること、わかってるの?」
「わかっているさ。成功するっていうのは、こういうことだ」
「違うわ。あなたは『楽』と『誇り』を引き換えただけよ。……今日ね、工場から届いた新しい餃子、食べたわ。あれ、本当にあなたの味だと思っているの? あんなに喉が渇くような、不自然な塊を、全国の人に食べさせるつもり?」
蓮見の眉が跳ね上がった。
「不自然? それは最新の技術だ。冷凍でも味が落ちないように、俺が監修して完成させた味だ。……お前の舌が、時代についてこれていないだけじゃないのか」
「私の舌が……?」
恵美の目が、鋭く潤んだ。
「……そう。そうやって、あなたはもう、自分の舌さえ信じなくなったのね。添加物で麻痺して、何が本当の野菜の味かも忘れてしまったのね」
「うるさい! 俺を誰だと思っている!」
蓮見の怒声が、狭い店内に響き渡った。かつての彼なら、決して恵美に声を荒らげることなどなかった。
恵美は、震える肩を抱きながら、静かに、しかし決然と言った。
「わかったわ。あなたがそう決めたなら、私はもう何も言わない。……でも、私はこの店を守る。ここだけは、あなたが捨てようとしている『本当の味』を、最後まで守り抜いてみせるわ」
蓮見は鼻で笑い、階段を上がった。
『守る? 勝手にすればいい。通販で実績が出れば、恵美だって考えを変えるはずだ。金があれば、人は変わる。……あいつだって、そのうちタワーマンションの夜景を喜ぶようになるさ』
二階の寝室。まだタワマンの柔らかなベッドではない、長年使い古した布団。
だが蓮見の心は、すでにこの路地裏から、ずっと高い場所へと飛び去っていた。
暗闇の中で、蓮見は何度も自分の舌を転がした。
旨味と、甘み。
それだけが、今の彼にとっての「正義」だった。




