第5話 監修室
「念のため、形式的なものですが……」
数日後、佐伯が持ってきたのは、これまで見たこともないほど分厚い契約書だった。
『機密保持契約』『技術監修契約』『知的財産権の帰属』。
難解な法律用語が並ぶ紙面を前に、蓮見は気圧されたが、佐伯の笑顔は相変わらず誠実そのものだった。
「蓮見さんの技術は、今や国宝級の価値があります。万が一にも、ライバル社にレシピが漏れたり、偽物が出回ったりしては困りますからね。お二人の権利を守るための壁だと思ってください」
蓮見は、横で顔を強張らせている恵美の視線を感じながら、震える手で実印を捺した。
朱肉の赤が、白地の紙に鮮やかに染み込む。その瞬間、彼の「味」はもはや彼だけのものではなく、システムの一部として法的に管理される対象となった。
◆
半年後。
高松の郊外。かつては田んぼが広がっていた一角に、巨大なプレハブの建物が完成した。
壁には誇らしげに、蓮見の店のロゴを模した巨大な看板が掲げられている。
『蓮見餃子・技術研究所』
蓮見は、借り物の高級セダンから降り立ち、その建物を仰ぎ見た。
かつては油の匂いのする作業着にタオルを巻いていた彼は、今や仕立てのいいシャツに、佐伯から「監修者の品格」として贈られた高級な腕時計を身につけている。
「蓮見先生、おはようございます!」
自動ドアをくぐると、白い作業服に身を包んだ二十数名の従業員が一斉に頭を下げた。
巨大なミキサーが唸りを上げ、コンベアの上を、同じ形、同じ重さの餃子が軍隊のように整然と流れていく。
「先生、今日のキャベツの糖度チェックをお願いします」
若手スタッフが差し出すデータシートを、蓮見は鷹揚に受け取る。
かつては、キャベツを一玉手に取った瞬間に、その育ちや水気の含み方を指先で感じ取っていた。だが今は、並んだ数字を見て「よし」と頷くだけだ。
自分の厨房には、もう立っていない。
路地裏の本店は、恵美とアルバイトに任せきりになっている。
◆
「蓮見先生。今日はこの後、セントラルキッチンの完成を祝って、本部の役員たちと会食の予定です。ホテルの最上階にあるレストラン、予約しておきましたから」
佐伯が耳元で囁く。
蓮見は一瞬、恵美の顔を思い浮かべた。
『最近、彼女とゆっくり話したのはいつだったか。……いや、彼女は現場を守ってくれているんだ。俺がこうして外の世界で実績を作ることが、彼女の幸せにも繋がるはずだ』
自分にそう言い聞かせ、蓮見は従業員たちの羨望の眼差しを浴びながら、冷暖房の完璧に効いた「監修室」へと向かった。
彼の舌は、まだこの時は正常に動いている。
しかし、連日の高級な会食と、自分の技術を数字でしか見なくなった傲慢さが、音を立てずに彼の「職人の魂」を侵食し始めていた。




