第4話 善意という罠
「……やっぱり、一度この目で見ときたいんだ」
蓮見のその言葉に、恵美は少しだけ迷う素振りを見せたが、最後には小さく頷いた。
「そうね。どんなふうに出されているか、自分の目で見れば納得できるわ」
二人は久しぶりの休みを利用して、佐伯から聞いたその食堂へと向かった。
辿り着いたのは、瀬戸内海から少し離れた、静かな港町にある「ひまわり食堂」という名の小さな店だった。
店構えは古いが、暖簾をくぐると、客たちの賑やかな声が聞こえてくる。
「はい、お待たせ! 餃子、焼き上がったよ!」
老店主の明るい声と共に、皿が運ばれていく。
「おっ、待ってました! ここの餃子、最近本当に美味くなったよなあ」
客たちの笑顔。それを見た蓮見の胸に、かつてない高揚感が広がった。自分の手がけたものが、知らない場所で、確かに誰かを幸せにしている。
だが、恵美の視線は厳しかった。
二人の前に運ばれてきた餃子を見た瞬間、蓮見の表情も凍りついた。
「……違う」
蓮見が、声を落として呟く。
焼き色が薄く、羽根はベチャついている。箸で持ち上げると、皮が隣とくっついて破れてしまった。口に運べば、中の肉汁は逃げ出し、自慢のキャベツの食感も死んでいる。
「素材はうちのものだ。でも……これじゃあ、うちの餃子じゃない」
「そうね。焼き方が、全然追いついてないわ」
恵美も、同じことを感じていた。
◆
店が落ち着いた頃、蓮見は意を決して、厨房の老夫婦に声をかけた。
「……あの、すみません。高松でこの餃子を作っている、蓮見です」
老夫婦は驚き、そして恐縮するように何度も頭を下げた。
「まあ、本人さんが! 本当に助かってます。お客さんにも大評判で……。でも、なんだか、あなたがたが作るようには上手く焼けなくてねえ」
蓮見は、穏やかに、しかし職人の熱を帯びた声で言った。
「お父さん。これ、冷凍で運ばれてくることを計算に入れなきゃいけないんです。解凍しちゃダメだ。凍ったままの冷気を、どうやって蒸気に変えるか……。もしよければ、今から一緒にやってみませんか?」
それから数時間、蓮見と恵美は、狭い厨房で老夫婦と並んで立った。
「水はもっと少なめで。ここで一気に火を強めて……。そう、今です!」
蓮見が焼きの手順を教え、恵美がタイマーではなく「音」の聞き分け方を教える。
「パチパチって音が、少し高くなったでしょ? それが脂が回った合図よ」
やがて、ひまわり食堂の鉄鍋から、見事な黄金色の餃子が立ち上がった。
「おお……! 違う、全然違うわ。こんなに綺麗に焼けるなんて!」
老夫婦は、子供のように目を輝かせて喜んだ。
◆
帰り道。駅へ向かうバスの中で、恵美は蓮見の肩にそっと頭を預けた。
「……今日は、良かったわね」
「ああ。やっぱり、喜んでくれる顔を直接見るのが、一番だな」
蓮見は、恵美の手を握り返した。
この時の二人は、間違いなく一つの心で繋がっていた。「人助け」という言葉が、まだ何の汚れも持っていなかった頃。
だが、この「成功体験」こそが、蓮見の警戒心を完全に解いてしまった。
『俺のやり方なら、冷凍だって、誰が焼いたって、正解を教えればうちの味は守れるんだ』
その夜、高松に戻った蓮見のスマホに、佐伯からメッセージが届く。
『蓮見さん、今日はお疲れ様でした。ひまわり食堂の親父さんから、泣きながら電話がありましたよ。……実は、あんなふうにあなたの助けを待っている店が、他にも十軒、二十軒とあるんです』
善意という名の甘い罠が、蓮見をより広い、そして暗い迷宮へと誘い出そうとしていた。
◆
その夜、高松に戻った二人は、久しぶりに晴れやかな気持ちで食卓を囲んでいた。
「お父さんたちのあの笑顔、忘れられないわね」
恵美が少しだけ赤くなった顔で笑う。
「ああ。俺たちの餃子が、あの町を守ってるんだと思うと、疲れも吹き飛ぶよ」
蓮見もまた、心地よい余韻に浸っていた。自分たちの技術が、自分たちの店の壁を超えて誰かを救った。その手応えは、何物にも代えがたい「正義」に思えた。
だが、翌日の昼下がり。その余韻を切り裂くように、佐伯が店に駆け込んできた。
◆
「蓮見さん! 恵美さん! 聞いてください!」
佐伯の顔は興奮で紅潮していた。
「昨日の『ひまわり食堂』の話が、あっという間に近隣の商店街に広まったんです。自分たちも、あんな素晴らしい餃子で店を立て直したい。蓮見さんの指導を受けたいという店主が、今朝だけで五軒……いや、もっと増えるかもしれません。みんな、縋るような思いで電話をしてきてるんです!」
蓮見と恵美は、思わず顔を見合わせた。
「五軒……? いや、佐伯さん。それは無理ですよ」
蓮見が慌てて手を振る。
「ひまわり食堂さんだけでも、今の仕込みは限界なんです。これ以上は、物理的に手が回りません」
恵美も、強い口調で付け加えた。
「私たちは、この店のお客さんを一番に考えなきゃいけないんです。外を助けて、この店が疎かになったら本末転倒ですから。せっかくのお話ですが、これ以上は無理です。お断りしてください」
佐伯は、深く、深く頭を下げた。その姿は、まるで街の命運を一身に背負っているかのように見えた。
「わかっています。お二人のご負担は、これ以上増やせません。……ですから、提案があるんです」
◆
佐伯は顔を上げ、蓮見の目を真っ直ぐに見つめた。
「蓮見さん。お二人はもう、自分で包む必要はありません。……私がすべて用意します。今の厨房よりもずっと広く、清潔な別の拠点を確保します。そこで働く従業員も、私が責任を持って募集し、教育の場を整えます」
蓮見が言葉を失っている間に、佐伯は畳みかけた。
「蓮見さんと恵美さんには、『監修』をお願いしたいんです。現場の作業は従業員に任せ、お二人は味の最終チェックと、焼き方の指導だけをしていただく。……お二人の『魂の味』をシステム化して、もっと多くの、苦しんでいる店主たちを救いましょう。資金も、場所も、人も、すべて私がやります。お二人のリスクはゼロです」
「監修……」
蓮見が、その言葉を反芻する。
自分で包まず、自分の名前と技術で、人を救う。それはまるで、長年地を這うように働いてきた職人が、突然「神の座」を提示されたような甘美な響きだった。
「蓮見さん。これはビジネスじゃない。あなたの技術を、社会の共有財産にするためのプロジェクトなんです。……どうか、彼らを見捨てないでください」
佐伯の真実味を帯びた「懇願」の前に、蓮見の心は激しく揺れ動いた。
隣で恵美が、何かを言いたげに唇を噛んでいる。だが、昨日の老夫婦の涙を見た後では、その反対の言葉も、冷酷なエゴのように聞こえてしまう。
蓮見は、ゆっくりと自分の手を見た。
この手で直接包まなくても、俺が教えれば、あの「ひまわり食堂」のような奇跡が全国に広がるのではないか。
「……監修、か。俺たちが、味のすべてを管理できるなら……」
蓮見のその一言が、静かな厨房に重く響いた。
佐伯の口元に、一瞬だけ、恵美には決して見せない「勝利の微笑」が浮かんだことに、蓮見は気づかなかった。




