第55話 間に合わなかった言葉
病院の長い廊下に、恵美の足音だけが虚しく響いていた。
看護師に案内され、重い扉の向こうにある集中治療室へと足を踏み入れる。そこは、無機質な機械の電子音だけが支配する、生と死の境界線だった。
「こちらです」
案内した看護師の声は、いたわりに満ちていた。ベッドの横に立ち、モニターの波形を見つめていた医師が、恵美に気づいてゆっくりと歩み寄る。
「……奥様ですか」
恵美は、言葉が出なかった。ただ、痛々しいほどに包帯を巻かれ、数え切れないほどの管に繋がれた慶太の姿を見つめることしかできなかった。あんなに力強く自転車のペダルを漕いでいた足も、毎日数え切れないほどの餃子を包んできたその節くれだった手も、今はただ白く、冷たくなっている。
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「……精一杯の処置は尽くしましたが、全身への衝撃が強すぎました。これ以上の延命は、彼を苦しめるだけになるかもしれません。……最後に、声をかけてあげてください」
医師が静かにその場を離れ、恵美と慶太だけの時間が訪れた。
電子音だけが、慶太がまだ「ここにいる」ことを告げている。恵美は震える手で、管の繋がっていない慶太のわずかな指先に触れた。
「慶太さん……」
呼びかける声が、涙で途切れる。
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「……おかえりって、言いたかった。市場から帰ってきたら、ずっと待たせてた返事、言おうと思ってたのに。……もう一度、あなたの奥さんになりたいって、ちゃんと言おうと思ってたのに」
恵美の涙が、慶太の白い手の甲に落ちる。
「ずるいよ。自分だけ勝手にやり直して、お父さんの約束も果たして……俺の答えはこれだって、あんなにかっこいい顔して言ったじゃない。……一人にしないでよ」
慶太の指先は、答えてくれない。
けれど、ふと、モニターの波形がわずかに揺れた気がした。
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恵美は、慶太の耳元に顔を寄せた。
「慶太さん、聞こえる?……愛してる。もう一度、二人で歩こう。籍も入れよう。あの小さな店で、また一緒に餃子を焼こう。……あなたがいないと、私、一人じゃ美味しい餃子、焼けないんだから」
恵美は、慶太の手を自分の頬に寄せ、子供のように泣き崩れた。
高松の路地裏で、二人で積み重ねてきた一ヶ月。
泥を食い、砂を噛み、ようやく辿り着いた「幸せ」の入り口。
外では、何も知らない高松の街に、夕暮れが訪れようとしていた。
窓から差し込む赤い光が、静かに、静かに、二人の時間を照らしていた。
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葬儀を終えたばかりの斎場の外は、皮肉なほどに突き抜けた青空が広がっていた。
慶太の遺影の中で笑う彼は、かつての傲慢な起業家の顔ではなく、高松の路地裏で、粉にまみれ、額に汗して働いていた、あの「職人」の穏やかな表情だった。
「……あ、あぁ……」
恵美は、喪服の袖が地面につくのも構わず、膝から崩れ落ちた。立っていることさえ、もう限界だった。慶太がいなくなってからの数日間、彼女を突き動かしていたのは、悲しみではなく、ただの「義務感」だけだったからだ。彼を送り出さなければならないという、最後の大仕事。それが終わった今、張り詰めていた糸がぷつりと切れ、暗い闇が足元から競り上がってきた。
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「……慶太さん、一人で行っちゃった。私……何も返せなかった。再婚の返事も、ありがとうも、愛してるも……全部、間に合わなかった……」
アスファルトに涙の跡が黒く点々と広がる。
その時、震える恵美の肩を、温かく、けれど力強い腕が包み込んだ。
「よく頑張ったよ。……本当によく頑張ったね、恵美」
松山から駆けつけた母の、優しく、慈愛に満ちた声だった。母は、子供の頃にしてくれたように、恵美をその胸に深く抱き抱えた。
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「お父さんのこと、慶太さんのこと……あんた、この数ヶ月でどれだけのものを背負ってきたの。もういいのよ。今は、ただの娘に戻って、思い切り泣きなさい」
「お母さん……私、どうしたらいいの。二人で、これからだって……ようやく地に足をつけて、歩き出そうって言ったのに……!」
母の胸の中で、恵美は堰を切ったように声を上げて泣いた。
厳格だった実の父に切り捨てられ、泥水を啜りながら、それでも愛媛の義父が教えてくれた「本物の生き方」を掴もうとしていた慶太。彼が守りたかったのは、名声でも金でもなく、恵美と過ごす、なんてことのない「餃子の匂いがする日常」だった。
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「慶太さんはね、分かってたはずよ。あんたが隣にいてくれただけで、あの人はもう、十分すぎるほど救われてたんだから」
母の手が、恵美の背中を優しくさする。
「松山のお父さんもね、きっと天国で『ようやったな』って、慶太さんを労ってるわ。あんたが一人で背負うことはないの。今は、私と一緒に少し休みましょう」
高松の潮風が、湿った恵美の頬を撫でて通り過ぎていく。
慶太が愛し、義父が守りたかった、この街。
慶太の肉体は消えても、彼が遺した「職人の手」の温もりと、泥の中から芽吹かせようとした「誠実さ」は、恵美の心の中に確かに刻まれていた。
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母に抱かれ、泣き疲れた恵美の視界の端で、夏の陽炎がゆらゆらと揺れていた。
いつか、また前を向ける日が来るのかは分からない。
けれど、慶太が命を懸けて守った「六車」という名前と、あの小さな店の鍵は、今も恵美の掌の中で、重く、確かな存在感を放っていた。




