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第54話 峠

凄まじい衝撃だった。

鼓膜を突き破るような金属音と、自分の骨が砕ける不気味な感触。

慶太の体は木の葉のように宙を舞い、アスファルトの冷たい地面に叩きつけられた。

「おい! おい、しっかりしろ!」

「救急車だ! 誰か呼んでくれ!」

遠くで誰かの叫び声が聞こえる。だが、慶太の耳に届くのは、自分の内側から溢れ出すような、低く重い地鳴りの音だけだった。

視界が赤く染まっていく。

喉の奥からせり上がる鉄の味。

横倒しになった自転車のカゴからは、今日仕入れたばかりのみずみずしいキャベツが放り出され、泥にまみれて転がっていた。

(あぁ……せっかく……いいのが……入ったのに……)

朦朧とする意識の中で、慶太は必死に目を開こうとした。

数メートル先で、激しくフロント部分を大破させた黒い高級セダンが止まっている。タイヤが虚しく空転し、白煙を上げている。

その運転席のドアが、ゆっくりと開いた。

ふらりと降りてきたのは、仕立てのいいスーツを血で汚した男だった。

佐伯。

その瞳は虚ろで、口元には狂気とも絶望ともつかない、歪な笑みが張り付いている。

佐伯は、倒れ伏す慶太に一歩、また一歩と近づこうとして、力なくその場に膝をついた。

巨額の賠償金、失った名声、追い詰められた法廷。すべてを失い、自暴自棄になった男が選んだ最後の一撃。

「……な、ぜ……」

慶太は、震える指先で泥まみれのアスファルトを掻いた。

なぜ、そこまでして俺を憎む。

なぜ、俺たちが這い上がろうとする道を、そんなにも残酷に断ち切ろうとする。

(恵美……返事……待ってる……って……)

「慶太……さん……?」

遠のいていく意識の縁で、いつか聞いた恵美の声が聞こえた気がした。

松山の潮風の香り。義父が遺したノートの感触。

すべてが、白い光の中に溶けていく。

慶太の指先が、転がったキャベツの葉に触れたところで、力なく止まった。

プルルルル、プルルルル。

静まり返った店内に、場違いなほど高い音が響き渡る。恵美は、餃子の包みを並べていた手を止め、胸のざわつきを抑えながら受話器を取った。

「はい、六車です」

「……こちら、高松中央病院の看護師ですが、六車慶太さんのご家族でしょうか」

受話器の向こう側の、落ち着いているがゆえに冷徹な響き。恵美の指先から、体温が引いていく。

「はい、そうですが。慶太が、何か……?」

「落ち着いて聞いてください。六車さんが、先ほど市場近くの交差点で交通事故に遭われ、こちらに搬送されました。……今、緊急の処置を行っています」

「緊急……? 嘘、さっきまで、そこにいたんです。自転車で、市場に……」

「……相手の車に跳ね飛ばされたようです。非常に強い衝撃を受けていて、今が、峠です」

峠。その言葉が、恵美の頭の中で不吉な鐘のように鳴り響いた。

「はい、すぐに向かいます。……はい」

受話器を置く音が、ひどく遠くで聞こえた。

自然と涙が、熱い塊となって頬を伝い、調理台の上にぽたぽたと落ちた。

慶太が今朝、丁寧に磨き上げた清潔なステンレス。そこに、自分の絶望が溜まっていく。

「返事を……まだ、返事をしてないのに」

籍を、もう一度。

あの日、慶太が言いかけて飲み込んだ願いに、今日こそ「はい」と答えるつもりだった。

地獄から這い上がり、泥にまみれて、ようやく見つけた二人の答え。それを伝えるための、あと一歩の距離。

恵美は、震える手でエプロンを外した。

鍵をかける手がもどかしい。

涙で視界が歪み、鍵穴すらまともに見えない。

(お父さん、助けて……。慶太さんを、連れて行かないで)

初夏の強い日差しが照りつける高松の街。

恵美は、まだぬくもりの残る店を背に、慶太が待つ病院へと走り出した。

彼女の頬を濡らす涙は、風にさらわれても、さらわれても、止まることはなかった。

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