第54話 峠
凄まじい衝撃だった。
鼓膜を突き破るような金属音と、自分の骨が砕ける不気味な感触。
慶太の体は木の葉のように宙を舞い、アスファルトの冷たい地面に叩きつけられた。
「おい! おい、しっかりしろ!」
「救急車だ! 誰か呼んでくれ!」
遠くで誰かの叫び声が聞こえる。だが、慶太の耳に届くのは、自分の内側から溢れ出すような、低く重い地鳴りの音だけだった。
◆
視界が赤く染まっていく。
喉の奥からせり上がる鉄の味。
横倒しになった自転車のカゴからは、今日仕入れたばかりのみずみずしいキャベツが放り出され、泥にまみれて転がっていた。
(あぁ……せっかく……いいのが……入ったのに……)
朦朧とする意識の中で、慶太は必死に目を開こうとした。
数メートル先で、激しくフロント部分を大破させた黒い高級セダンが止まっている。タイヤが虚しく空転し、白煙を上げている。
◆
その運転席のドアが、ゆっくりと開いた。
ふらりと降りてきたのは、仕立てのいいスーツを血で汚した男だった。
佐伯。
その瞳は虚ろで、口元には狂気とも絶望ともつかない、歪な笑みが張り付いている。
佐伯は、倒れ伏す慶太に一歩、また一歩と近づこうとして、力なくその場に膝をついた。
巨額の賠償金、失った名声、追い詰められた法廷。すべてを失い、自暴自棄になった男が選んだ最後の一撃。
◆
「……な、ぜ……」
慶太は、震える指先で泥まみれのアスファルトを掻いた。
なぜ、そこまでして俺を憎む。
なぜ、俺たちが這い上がろうとする道を、そんなにも残酷に断ち切ろうとする。
(恵美……返事……待ってる……って……)
「慶太……さん……?」
遠のいていく意識の縁で、いつか聞いた恵美の声が聞こえた気がした。
松山の潮風の香り。義父が遺したノートの感触。
すべてが、白い光の中に溶けていく。
慶太の指先が、転がったキャベツの葉に触れたところで、力なく止まった。
◆
プルルルル、プルルルル。
静まり返った店内に、場違いなほど高い音が響き渡る。恵美は、餃子の包みを並べていた手を止め、胸のざわつきを抑えながら受話器を取った。
「はい、六車です」
「……こちら、高松中央病院の看護師ですが、六車慶太さんのご家族でしょうか」
受話器の向こう側の、落ち着いているがゆえに冷徹な響き。恵美の指先から、体温が引いていく。
「はい、そうですが。慶太が、何か……?」
◆
「落ち着いて聞いてください。六車さんが、先ほど市場近くの交差点で交通事故に遭われ、こちらに搬送されました。……今、緊急の処置を行っています」
「緊急……? 嘘、さっきまで、そこにいたんです。自転車で、市場に……」
「……相手の車に跳ね飛ばされたようです。非常に強い衝撃を受けていて、今が、峠です」
峠。その言葉が、恵美の頭の中で不吉な鐘のように鳴り響いた。
「はい、すぐに向かいます。……はい」
受話器を置く音が、ひどく遠くで聞こえた。
◆
自然と涙が、熱い塊となって頬を伝い、調理台の上にぽたぽたと落ちた。
慶太が今朝、丁寧に磨き上げた清潔なステンレス。そこに、自分の絶望が溜まっていく。
「返事を……まだ、返事をしてないのに」
籍を、もう一度。
あの日、慶太が言いかけて飲み込んだ願いに、今日こそ「はい」と答えるつもりだった。
地獄から這い上がり、泥にまみれて、ようやく見つけた二人の答え。それを伝えるための、あと一歩の距離。
◆
恵美は、震える手でエプロンを外した。
鍵をかける手がもどかしい。
涙で視界が歪み、鍵穴すらまともに見えない。
(お父さん、助けて……。慶太さんを、連れて行かないで)
初夏の強い日差しが照りつける高松の街。
恵美は、まだぬくもりの残る店を背に、慶太が待つ病院へと走り出した。
彼女の頬を濡らす涙は、風にさらわれても、さらわれても、止まることはなかった。




