第51話 遺言
愛媛から届いた一通の報せは、高松の初夏の陽光を、一瞬にして鉛色に変えた。
「お父さん……亡くなったって」
恵美の震える声を聞いた瞬間、慶太の心臓は激しく波打ち、視界が歪んだ。包丁を握る手に力が入り、まな板の上にあるキャベツの匂いが、なぜか遠い記憶の底にある線香の匂いと混じり合った。
ひと月前、あの痩せ細った義父と交わした会話。
「大変じゃったろ」
「地道にやっとるか」
あの時の言葉の一つ一つが、今になって慶太の胸を鋭い錐のように突き刺す。
◆
慶太は、かつて何度もこの愛媛の地を訪れていた。
「蓮見餃子」の絶頂期、高級車を走らせ、後部座席には熨斗の付いた高級な手土産を積み込んで。当時の慶太にとって、義父への挨拶は「成功した自分」を誇示するための儀式に過ぎなかった。
義父が時折見せた、案じるような、どこか寂しげな眼差し。
「慶太くん、あまり急ぎすぎんほうがええぞ」
そう諭された時、慶太は内心で(お義父さんは時代のスピードが分かっていない)と鼻で笑っていた。その傲慢さが、今の自分をどれほど惨めにさせていることか。
◆
葬儀の席で、慶太は親族たちの冷ややかな視線に晒されていた。
「どの面下げて来たんや」
「あんなに恵美ちゃんを泣かせておいて」
聞こえてくる囁き声は、慶太がこれまで撒いてきた種が芽吹いた報いだった。かつての慶太なら、そんな連中を「負け犬」と見下していただろう。だが今の彼は、ただ沈黙し、焼香の煙の中に義父の面影を探していた。
◆
出棺の際、義母が慶太の元へ歩み寄り、一通の封筒を差し出した。
「お父さん、これを慶太さんに渡してくれって。具合が悪くなってから、ずっと枕元に置いていたのよ」
高松に戻る特急「いしづち」の中で、慶太は震える手でその封筒を開けた。
中には、便箋が一枚。そこには、震える、けれど力強い文字でこう記されていた。
『慶太くん。
失敗を恥じることはない。
泥を食って、砂を噛んで、それでも守りたいものがあるなら、
それが男の本当の看板だ。
恵美を頼む。
お前の焼く餃子は、最初から旨かったよ。』
◆
「……っ」
慶太は、声を殺して泣いた。
成功していた時の自分を、義父は認めていたのではない。
見栄を張り、虚勢を張っていたあの頃の自分の奥底にある、わずかな「熱」を信じてくれていたのだ。
隣で静かに涙を拭う恵美の肩を、慶太は強く抱き寄せた。
「恵美……。俺、やるよ。お義父さんが信じてくれた、この手で」
高松駅に降り立った慶太の背中は、松山へ向かう時よりも小さく、けれど、何倍も頑強に見えた。
◆
店に戻り、彼は真っ先に厨房へ立った。
まだ火の入っていない冷たい鉄板の前に立ち、深く一礼する。
義父に食べさせたかった「本物の味」。
それは、もはや数字や名声のためではない。
自分を信じてくれた亡き父への、そして、自分と共に歩む決意をした妻への、命を懸けた誓いだった。
明日から、また朝が来る。
キャベツを刻み、肉を練る。
その一動作一動作に、慶太は義父の魂を込める。
高松の路地裏。
小さな店から立ち昇る湯気は、あの日よりもずっと濃く、温かく、街の闇を照らし始めていた。
◆
葬儀を終え、高松に戻った慶太が最初にしたことは、厨房の床を這いつくばって磨き上げることだった。
義父が守り抜いたあの古い家の床と同じように、隅々まで。自分の慢心や、かつての虚栄心が微塵も残らぬよう、一拭きごとに「今、ここ」に心を定めていった。
開店の暖簾を掲げると、初夏の湿った風が店内に流れ込む。
「いらっしゃいませ!」
慶太の声には、もうかつての社長としての尊大さはない。かといって、逃亡者のような卑屈さもなかった。ただ、一人の職人として、暖簾をくぐってきた客を真っ直ぐに見据える眼差しがあった。
◆
カウンターに座ったのは、近所の工場で働く作業着の男だった。
慶太は、その男の汚れた手を見て、自分の爪の端に残る煤汚れを思い出した。かつてなら目を逸らしていたその「働く手」に、今は深い親近感と敬意を覚える。
「……お待たせしました。餃子です」
鉄板の上で、命が躍るような音を立てていた餃子が、皿に並ぶ。
義父が最期まで気にかけてくれた、慶太の原点。
男が一口、餃子を頬張る。
慶太は呼吸を止め、その様子をじっと見守った。かつて数千件のアンケート結果や売上グラフに一喜一憂していた頃とは違う。目の前の一人が、自分の作ったもので、今、どう感じているか。その一瞬の真実に、慶太は自分の全存在を懸けていた。
◆
「……ふぅ。旨いな、兄ちゃん」
男がボソリと呟き、冷えたビールを流し込む。
「生きててよかった」と言わんばかりのその吐息に、慶太の胸の奥が熱くなった。
(お義父さん……見ていてください)
慶太は心の中で呟いた。
大きな看板を掲げることも、瀬戸大橋を越えて勢力を広げることも、今の自分には必要ない。
この狭いカウンター越しに、一人のお客様と向き合い、その空腹と心を、たった一皿の餃子で満たすこと。
「ありがとうございます」
慶太は深く、深く頭を下げた。
その姿を、恵美が厨房の隅から静かに見つめている。彼女の瞳には、かつての華やかな「蓮見慶太」ではなく、泥を食い、砂を噛み、それでも自分の足でしっかりと大地を踏み締める一人の「夫」の姿が映っていた。
◆
今、やれることを。
一つずつ、一人ずつ。
義父が遺した「味は、人で決まる」という言葉が、慶太の血となり、肉となっていく。
高松の路地裏に灯る小さな明かり。
そこから立ち昇る湯気は、どんなに強い逆風が吹こうとも、もう二度と消えることはなかった。




