第50話 蓮見という名
蓮見慶太が「蓮見」という家を、そして父・誠一郎という存在を決定的に拒絶したのは、大学を卒業して数年、大手企業での勤めを辞めた春のことだった。
父は当然のように、官僚か一流企業への道を強いた。名門大学の学位は、蓮見家の栄光を繋ぐための「整理券」に過ぎなかったのだ。慶太は父の期待通り、大手商社に就職し、順調に出世街道を歩んでいた。だが、名刺一枚で百人の部下を動かし、地上百メートルのオフィスから夜景を見下ろす日々の中で、慶太の心はどこか渇いていった。
ある日、慶太は父が用意させた出世の道をすべて投げ捨て、一足の履き潰したスニーカーで家を飛び出した。
逃げ込んだのは、学生時代に明け暮れたアルバイト先の飲食店だった。
「皿洗いが、俺の本当のスタートだったな」
高松の厨房で、慶太は独り言のように呟いた。
怒鳴り散らす父の声を背に、彼は深夜まで油にまみれて働き続けた。自分の城を持ちたい。いつか、父が認めざるを得ないほどの成功を、自分の腕一本で掴み取ってみせる。その執念が、後の「蓮見餃子」を生み出す原動力となった。
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そして、その泥臭い修行時代、まだ光さえ見えていなかった頃の彼を支えていたのが、同じ店でアルバイトをしていた恵美だった。
彼女は愛媛の松山から、香川の大学へと進学したばかりだった。故郷を離れ、慣れない街で自立しようと奮闘していた彼女。
「蓮見さんの作る賄い、一番美味しいです。私、この餃子なら毎日でも食べたい」
大学の講義を終え、夜遅くまでホールを駆け回っていた恵美。彼女が仕事上がりに、慶太の作った試作の餃子を本当に幸せそうに頬張る姿。それが、慶太にとっての、たった一つの「救い」だった。
「俺、いつか自分の店を出すんだ。蓮見の看板じゃなくて、自分の腕一本でさ」
そんな青臭い夢を語る慶太に、恵美は「慶太さんなら、きっとできますよ」と、松山の両親譲りの穏やかで、けれど芯の強い眼差しを向けてくれた。
慶太が「蓮見餃子」として成功を収め、かつての父と同じように「数字」という怪物に取り憑かれていく彼を、誰よりも近くで案じていた。
(彼女は最初から知っていたんだな。地に足をつけて生きることの難しさと、尊さを)
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香川での学生時代、そして今。
巡り巡って、また二人はこの高松の地で、一つの厨房に立っている。
「恵美、大学の頃、よく言ってたよな。香川もいいけど、やっぱり故郷の味は特別だって」
慶太の言葉に、恵美は少し驚いたように、それから懐かしむように目を細めた。
「あら、覚えてたの? でもね、今の私が一番守りたいのは、このお店の味よ。……あの日、あなたが私に焼いてくれた、あの餃子の味」
慶太は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
松山から香川へ。そして、絶頂からどん底へ。
長い時間をかけて、二人はようやく、本当の意味で「同じ場所」に辿り着いたのだ。
「……ああ。最高に旨い餃子を焼こう。松山のお父さんにも、いつか胸を張って届けられるような、本物の味を」
慶太は再び包丁を握り直した。
刻まれる野菜の音は、かつての焦燥に満ちたリズムではなく、確かな明日を刻む、力強い鼓動のように店内に響き渡っていた。
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蓮見慶太が生まれ育ったのは、香川県内でも指折りの名家だった。
父・誠一郎は地方自治体の重職にあり、その厳格さと高慢さは県内でも知れ渡っていた。慶太が大手商社を辞め、飲食という道に走ったとき、誠一郎はそれを一族の恥と断じた。
「蓮見の人間が、水商売の末端だと? お前のような愚か者は、二度とこの家の敷居を跨ぐな」
勘当同然で家を追い出された慶太だったが、数年後、事態は一変する。
慶太が立ち上げた「蓮見餃子」が爆発的なヒットを記録し、岡山、そして四国全域へとその名を轟かせた時だ。
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手のひらを返したのは、父の方だった。
「やはり私の息子だ。蓮見の血が成せる業だな」
誠一郎は、地元の会合や宴席で「蓮見餃子」の名を我が事のように自慢し始めた。慶太が贈った餃子の詰め合わせを、知人たちに誇らしげに配り歩く。慶太を「一族の誇り」と呼び、疎遠だった親戚たちまでもが、成功の甘い汁を吸おうと群がってきた。
慶太もまた、その称賛に酔いしれていた。
父を見返してやったという優越感が、彼をさらなる野心へと駆り立てた。恵美が隣で「そんなに急がなくてもいいのに」と不安げな声を上げても、成功の絶頂にいた彼の耳には届かなかった。
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しかし、その栄華は砂上の楼閣に過ぎなかった。
不祥事が発覚し、数々の醜聞が世間を騒がせると、蓮見家は氷のような速さで慶太を切り捨てた。
「お前は、蓮見の名を泥で汚した。我が一族に、恥さらしなどおらん」
自宅の門前で、誠一郎は冷徹に言い放った。昨日まで慶太の成功を「蓮見の血」のおかげだと吹聴していた男が、今度はその存在そのものを「最初からいなかったもの」として抹消しようとしたのだ。
『親子の縁を切る。今後、一切の接触を禁ずる。二度と蓮見を名乗るな』
一方的に送りつけられた絶縁状。親戚たちも一斉に連絡を絶ち、慶太は文字通り、たった一人で奈落へと突き落とされた。
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高松の小さな厨房で、慶太はボウルの中のひき肉を力強く練り合わせる。
かつて父が自慢し、そして唾棄した「蓮見」という名は、もうどこにもない。
「慶太……?」
恵美が、そっと彼の背中に手を置いた。
「大丈夫だよ、恵美。……俺には、もうあの家は必要ない」
慶太は顔を上げ、かつての傲慢な「蓮見」ではない、穏やかで強い眼差しを彼女に向けた。
「あいつらが自慢したのも、切り捨てたのも、俺じゃなくて『蓮見』っていう看板だけだったんだ。でも、今の俺には、君がいて、この店がある」
自分の腕一本で、粉を練り、肉を詰める。
父が「賤」と呼び、失敗した瞬間に切り捨てたこの泥臭い仕事こそが、今の慶太にとっては唯一の誇りだった。
高松の路地裏。
「蓮見餃子」の華々しい看板ではなく、手書きのお品書きが揺れる小さな店。
慶太は今、家系の呪縛から解き放たれ、一人の「職人」として、本当の意味で自分の人生を歩み始めていた。




