第49話 杭
高松駅に降り立ったとき、夜の空気は松山よりも少しだけ冷たく感じられた。
改札を出て、見慣れた街灯の下を歩く。慶太の足取りは、数日前のそれとは決定的に違っていた。背負っているのは「いつか成功して見返してやる」という浮ついた野心ではなく、痩せ細った義父の掌の温もりと、恵美が流した涙の重みだ。
店に戻り、シャッターを上げる。
暗い店内に、わずかに残る油と粉の匂い。かつては「掃き溜め」のように思えていたこの場所が、今は慶太にとって、命を懸けて守るべき城に見えた。
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「慶太……?」
後ろで恵美が不安そうに自分を見つめている。慶太は振り返り、彼女の肩をしっかりと抱き寄せた。
「恵美。俺、決めたよ」
その声に、迷いはなかった。
「お父さんが言った通りだ。俺は今まで、雲を掴むようなことばかり考えて、足元の本当の幸せを踏みにじってきた。でも、もう二度と君を置き去りにはしない。この店を、君との暮らしを、俺が死ぬ気で守り抜く」
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煤汚れの残る手で、店内の古びた調理台を撫でる。
佐伯がまた毒を吐きに来るかもしれない。一条の影が闇から石を投げてくるかもしれない。また自転車を壊され、ゴミを焼かれる夜が来るかもしれない。
だが、今の慶太には、地面に深く打ち込まれた杭のような覚悟があった。
「明日から、また始めよう。誰に何を言われても、俺たちはここで、世界で一番誠実な餃子を作るんだ」
恵美は慶太の胸に顔を埋め、小さく頷いた。彼女の震えが、慶太の体温で少しずつ静まっていく。
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翌朝、まだ夜が明けきらぬうちから、慶太は新しい中古の自転車を漕ぎ出した。
冷たい朝の空気を切り裂きながら、市場へ向かう。重い野菜を積み、坂道を登る。ふくらはぎに伝わる鈍い痛みさえ、今は自分が生きている証として心地よかった。
店に戻り、エプロンを締める。
粉を練り、肉を叩き、野菜の水分を絞る。
一つ、また一つ、魂を込めて餃子を包んでいく。
それは、義父が言った「泥の中から出た芽」を、大切に育てる作業のようだった。
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「いらっしゃいませ!」
十一時。開店を告げる慶太の声が、高松の路地裏に力強く響き渡った。
地に足をつけ、愛する人を守り抜く。
かつて「蓮見」と呼ばれた男の、本当の人生が、ここから始まろうとしていた。




