第48話 泥の中から出た芽
「お父さんもね、昔は同じだったのよ」
母親が、温かい茶を淹れ直しながら、どこか懐かしむように話し始めた。
「若い頃は仕事に夢中でね、家を空けてばかり。大きな仕事を任されるのが男の甲斐性だと信じて、振り返りもしなかったわ。今の慶太さんと同じ……ううん、もっとがむしゃらで、家族のことなんて二の次だった時期があったの」
慶太は驚いて、痩せ細った義父の横顔を見た。厳格で、常に正論を口にするこの人が、自分と同じような「迷い」の中にいたなどと想像もしていなかった。
「……お義父さんも、ですか?」
「まぁ、恵美もお父さんのそんな姿を見て育ったからね。男の人が夢中になると周りが見えなくなることも、それがどれほど危ういものかも、ちゃんと理解していると思うわよ」
◆
母親のその言葉は、慶太の胸に静かな衝撃となって広がった。
隣に座る恵美は、何も言わずに俯いている。
彼女がかつて、慶太の「成功」を素直に喜べず、どこか不安げな眼差しを向けていた理由が、ようやく腑に落ちた。彼女は慶太の成功を妬んでいたのではない。また、贅沢な暮らしに怯えていたわけでもない。
ただ、一度走り出したら止まれない男の「脆さ」を知っていたのだ。
数字や名声という、いつ崩れるか分からない雲の上を歩くのではなく、地面を這ってでも、今日という一日を誠実に積み上げる大切さを、彼女は父親の背中から学び取っていた。
◆
(そうだったのか……)
慶太は、胸の奥が締め付けられるような思いだった。
自分は彼女を「成功者の妻」という殻に閉じ込めようとしていた。だが、恵美が欲しかったのは、煤で汚れ、泥にまみれても、この土地にしっかりと根を張って生きる一人の「夫」としての姿だったのだ。
自分が「蓮見」として積み上げた砂上の楼閣が崩れ去ったことは、恵美にとっては「悲劇」ではなく、ようやく夫が地面に足を下ろした「始まり」だったのかもしれない。
「……俺は、本当に何も分かっていませんでした」
慶太は、震える声で呟いた。
「成功すれば彼女を守れると、勝手に思い込んで……。でも、守られていたのは俺の方だったんですね。恵美が、俺がいつか地面に落ちてくるのを、ずっと下で待っていてくれたんだ」
◆
義父は、小さく頷いた。
「地面は硬くて冷たいが、そこからしか本物の芽は出ん。……慶太くん、あんたが今、高松で包んでいる餃子は、泥の中から出てきた芽なんじゃろ」
その言葉に、慶太は深く、深く頭を下げた。
畳に落ちた涙が、一点だけ色を濃く変えていく。
かつての自分が最も軽蔑していた「泥臭さ」の中にこそ、自分が守るべきすべてがあった。
◆
松山駅に向かうタクシーの車内は、行きよりもさらに静かだった。
窓の外を流れる松山の街並みは、夕暮れに染まり始めている。慶太は、義父からかけられた言葉の重みを噛み締め、熱を持った胸の震えを静めようとしていた。
「慶太」
隣に座る恵美が、ぽつりと呟いた。その声は、窓ガラスを叩く微かな振動よりも頼りなく、震えていた。
「お父さん……もう、あまり長くないの」
「え……」
慶太の思考が、一瞬で真っ白になった。
さっきまで、すぐ目の前で言葉を交わしていたのだ。声は掠れ、体は痩せていた。けれど、その眼差しには確かな意志があり、自分を叱咤するような力強さが残っていた。
◆
「そんな……。だって、あんなにしっかり話してくれたじゃないか。これから、もっと……」
「……無理をしてたのよ、今日は。慶太が来るって聞いて、ずっと前から、今日だけはちゃんと座っていられるようにって。お医者様からは、いつ何があってもおかしくないって言われているの」
恵美の瞳から、堪えていたものが溢れ、頬を伝った。
「私が香川であなたと暮らすって決めた時も、お父さんは何も言わずに送り出してくれた。本当は、そばにいて欲しかったはずなのに。私が、あなたの隣で『地に足をつけて生きる』のを見届けることが、お父さんの最後の願いなんだと思う」
◆
慶太は言葉を失い、自分の両手を見つめた。
煤汚れの残る、節くれだった手。
義父は、死を目前にしながら、自分の命を削って慶太に言葉を遺してくれたのだ。
「男の勘違い」も、「女の幸せ」も、「泥の中からしか芽は出ない」という言葉も。それは、かつて同じように迷い、家族を顧みなかった一人の男から、同じ過ちを繰り返そうとしていた「息子」への、命懸けの遺言だった。
自分がどれだけ残酷な時間を過ごしてきたか。
慶太は、今更ながらに自分の罪の深さを、そして、その罪を抱えたまま自分を信じて待ってくれていた恵美という女性の強さを思い知り、激しい嗚咽を堪えるように奥歯を噛み締めた。
「……すまない。本当に、俺は……」
慶太は、恵美の細い手を、煤の残る手でそっと包み込んだ。
彼女の手は冷たかったが、その奥に流れる確かな鼓動が、慶太に「生きる責任」を突きつけていた。
◆
高松へ向かう特急いしづちのホームに滑り込んできた列車の光は、暮れなずむ空の下で、どこまでも冷たく、そして鮮やかだった。
二人は、残された時間の重さを共有しながら、再び瀬戸内の地へと戻る途についた。




