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第47 話 四国の土

特急いしづちが予讃線の急カーブを抜け、車窓に松山の市街地が広がり始めた。終点のアナウンスが流れると、慶太は一度深く息を吸い込み、強張った身体を無理やり動かして席を立った。

「着くわね」

恵美の短い言葉に、慶太はただ短く「ああ」とだけ答えた。

駅の改札を出ると、瀬戸内の柔らかな陽光が二人を照らしたが、慶太の表情は晴れない。これから向かうのは、恵美の実家。かつて「成功者」として凱旋した場所へ、今はすべてを失い、消えない煤汚れを爪に残した「一人の男」として足を踏み入れる。

タクシーを拾い、目的地を告げる恵美の声が、慶太の耳には遠く響いていた。

謝罪の言葉を反芻しすぎて、口の中は砂を噛んだように乾ききっている。

やがてタクシーが停まったのは、見覚えのある古い門構えの家の前だった。

「……行こう」

恵美が先に立ち、慶太はその背中を追うように歩き出した。

一歩、また一歩。

かつての傲慢な自分を一人ずつ殺していくような、重苦しい足取りで。

玄関の引き戸を開ける音が、静かな住宅街に小さく、けれど鋭く響き渡った。

「遠い所、ようきたなぁ」

玄関を開けてすぐ、慶太を迎え入れたのは、予想だにしていなかった穏やかな声だった。

罵声が飛ぶか、あるいは塩を撒かれるか。最悪の事態を想定して肩を硬くしていた慶太は、拍子抜けしたように立ち尽くした。

「お母さん……」

「恵美も、変わりないようでよかったわ。さあ、立ち話もなんやし、上がりなさい」

母親は、かつてと変わらぬ柔らかな微笑みを浮かべていた。慶太がどれほどの不祥事を起こし、恵美を傷つけ、どん底まで堕ちたかを知っているはずなのに、その瞳に険しさはない。

「……あの、お義母さん。俺は、その……」

「ええんよ。恵美から話は聞いとるよ。香川で、一生懸命やっとるんやろ?」

慶太は、用意していた謝罪の言葉を飲み込んだ。喉の奥が熱くなり、視界がわずかに滲む。思いの外、温かく、そして自然な「家族」としての対応に、どう反応していいか分からず戸惑うしかなかった。

だが、奥の居間に通された慶太は、さらなる衝撃を受けることになる。

「お父さん、慶太さんが来てくれたわよ」

そこに座っていたのは、かつて厳格で、曲がったことを何よりも嫌い、慶太を鋭い眼光で射抜いていた義父の姿ではなかった。

ここ数年、体調が思わしくないとは聞いていたが、目の前の老人は驚くほど小さく、痩せ細っていた。

「……お義父さん、ご無沙汰しております。蓮見……いえ、慶太です」

慶太は畳に膝をつき、深く頭を下げた。

かつて、高級車のキーを鳴らしながら、自信満々にこの部屋に座っていた自分。その自分の言葉を「中身が空っぽだ」と見抜いていた義父。

「……おお、慶太くんか。よう、来てくれたな」

ゆっくりと顔を上げた義父の声は、掠れてはいたが、どこか穏やかだった。鋭かった眼光は影を潜め、そこには時の流れと病がもたらした、静かな受容のようなものが漂っている。

慶太はその劇的な変化に、言葉を失った。

自分が自分勝手な野心に狂っていたのと同じ時間の中で、この家では、静かに、けれど確実に、命を削るような月日が流れていたのだ。

自分の過ちがいかに矮小で、独りよがりなものだったか。

老いた義父の姿を前にして、慶太はそれを痛いほどに突きつけられていた。

「顔を見せてくれて、嬉しいよ」

義父のその一言が、慶太の胸にどんな刃よりも深く、鋭く突き刺さった。

「大変じゃったろ」

義父は、震える手でゆっくりと茶碗を引き寄せながら、独り言のように言った。

「男は、成功して金を稼いでくることが、何より女房を喜ばせると勘違いしがちじゃが……」

慶太は畳に手をついたまま、微動だにできなかった。かつての自分そのものを言い当てられたような気がしたからだ。恵美を顧みず、ひたすら「蓮見」という虚飾の城を大きくすることだけに邁進していた日々。あの時の自分にとって、成功とは恵美への最大の贈り物だと信じて疑わなかった。

「……女は、ただ、明日の朝も隣に主人がいて、一緒に飯が食える。そんな当たり前のことが続けばええと願っとるもんじゃ」

義父の言葉は、静かだが重かった。病で痩せたその体から絞り出される言葉には、慶太がこれまで「効率」や「数字」という言葉で切り捨ててきた、時間の重みが宿っている。

「……申し訳ありません」

慶太は、絞り出すように言った。

「俺は、自分のことばかりでした。恵美を置き去りにして、挙句の果てに……裏切って。本当に、馬鹿な男です」

伏せた視線の先、畳の目が滲んで見える。

隣で静かに座っている恵美の気配が、これまでになく近く、そして尊く感じられた。彼女が望んでいたのは、特急いしづちのグリーン車でも、高級ブランドのバッグでもなかった。ただ、今日あった出来事を話し合いながら、二人で分け合う一杯のスープや、一粒の餃子だったのだ。

「あんたが今、香川で必死に自転車を漕いどることも、ゴミを焼かれても店に立っとることも、恵美から聞いとる」

義父は、少しだけ息を整えるように間を置いた。

「成功した時のあんたは、どこか遠い国の人のようじゃったが……。今のあんたは、ようやく、この四国の土の上に立っとる顔をしとる」

慶太は、顔を上げることができなかった。

かつて佐伯と共に「四国制覇」などという空虚な言葉を口にしていた自分が、どれほど滑稽だったか。地元の市場で指を煤で汚しながら野菜を選び、近所の人々に頭を下げて生きる今の方が、ずっと苦しく、けれどずっと、この大地に繋がっている。

「……お義父さん。俺に、もう一度、恵美さんの隣にいる資格を……いただけるでしょうか」

慶太は、額を畳に擦り付けた。

謝罪の言葉を反芻していた特急の中では、こんな言葉が出るなんて思っていなかった。ただ、今の自分を曝け出し、裁きを待つ。その覚悟だけが、慶太を突き動かしていた。

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