第46話 愛媛へ
一日の営業を終えた厨房には、微かな油の匂いと、静まり返った街の気配が満ちていた。
慶太は、丁寧に磨き上げた調理台を布巾で拭い、最後の一箇所を拭き終えると、深い溜息と共にその場に立ち尽くした。煤の混じった黒い火事の残骸を片付け、佐伯の執拗な影を振り払いながら、ひたすら餃子を包み続けた長い一日だった。
隣で片付けをしていた恵美が、ふと手を止めて慶太を見る。
慶太は視線を落としたまま、その節くれだった両手を見つめていた。爪の間には、いくら洗っても落ちない煤の黒ずみが、消えない罪の記憶のように僅かに残っている。
◆
「恵美」
慶太の声は、絞り出すように低かった。
「……こんなこと言えた義理ではないのは、重々承知している」
恵美は何も言わず、ただ慶太の言葉を待った。
「かつての俺が何をしてきたか。君をどう裏切り、どれほど多くの人を踏みにじってきたか……。それを忘れたわけじゃない。今受けている仕打ちだって、当然の報いなんだろう」
慶太は言葉を一度切り、ぎゅっと拳を握りしめた。煤汚れの残るその手は、震えていた。
「でも……もし許してもらえるなら。……もう一度、籍を」
◆
その言葉が出た瞬間、厨房の空気が止まった。
再婚。それは、今の自分たちにとって、どれほど贅沢で、そして残酷な願いだろうか。一条のこと、佐伯のこと、そして火を放たれたゴミの山。地獄の淵に立っている今の自分には、彼女の人生を再び背負う資格など、どこにもないはずだった。
「……いや、なんでもない。忘れてくれ」
慶太は慌てて首を振り、逃げるように蛇口を捻った。激しい水の音が、静寂を無理やりかき消す。
「今の俺に、そんなことを言う資格なんてない。すまない、変なことを言った」
水にさらされた慶太の横顔は、かつての自信に満ちた「蓮見」の面影など微塵もなく、ただ一人の、過去の重みに震える男の顔だった。
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恵美は、流れる水の音を聴きながら、慶太の背中をじっと見つめていた。佐伯に毒を吹き込まれ、一条という女性の影を知らされてもなお、彼女の心にある答えは揺らがなかった。
「慶太」
水の音に負けない、静かで確かな声が、厨房に響いた。
「……返事は、待って欲しいの」
恵美の静かな言葉が、洗い場の水音にかき消されそうになりながらも、慶太の胸に深く届いた。
「実家の両親も、ずっと心配させているから……」
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慶太は濡れた手を止め、ゆっくりと顔を上げた。恵美の故郷、愛媛。かつて「蓮見」として成功の絶頂にいた頃、自分はあの場所をどう見ていただろうか。自慢の高級車を走らせ、都会の成功者としての顔を見せびらかしに行く場所だと思っていたのではないか。
「……わかった」
慶太は、自分に言い聞かせるように頷いた。
「今の俺が、お義父さんやお義母さんに会えた義理ではないのは、よくわかっている。でも、せめて誠意だけは伝えたいんだ。……今の俺が、どんな手で仕事をしているのか。それをちゃんと見てもらわなきゃいけない」
一度深呼吸をして、慶太は恵美を真っ直ぐに見据えた。
「今度の休み、愛媛に挨拶に行きたい。逃げるんじゃなくて、今の自分として、ちゃんとけじめをつけたいんだ」
「愛媛に……」
「ああ。もちろん、君が許してくれるならだけど」
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香川から愛媛へ。かつてなら二時間余りのドライブでしかなかったその距離が、今の慶太には、果てしなく険しく、重い道のりに感じられた。自分たちが生きるこの四国の土を踏みしめて、過去と向き合いに行くための旅。
「……お父さんたちには、私から連絡しておくわ。突然行っても、驚くだけでしょうから」
恵美の言葉に、慶太は深く、深く頭を下げた。
「ありがとう、恵美。……本当に、ありがとう」
厨房の片隅、新しい中古の自転車が静かに明日を待っている。
一条のこと、佐伯のこと、そしてゴミを焼かれた夜の記憶。それらすべてを振り切ることはできない。けれど、その重荷を背負ったまま、慶太は愛媛への道を歩き出そうとしていた。
夜の帳が下りた高松の街で、二人の沈黙は、これまでとは違う微かな熱を帯び始めていた。
◆
高松駅を出発した特急いしづちの車内は、平日の昼下がりということもあって、空席が目立ち、ひっそりとしていた。
ガタゴトと規則正しく刻まれるレールの音だけが、車内に響いている。慶太は窓の外を流れる讃岐平野の景色を眺めるでもなく、膝の上に置いた自分の両手をじっと見つめていた。
(……なんて言えばいい。今の俺に、何が言えるんだ)
かつて愛媛を訪れたとき、彼は仕立てのいいスーツに身を包み、高価な手土産を武器のように携えていた。義父の厳しい視線さえ、成功者の余裕で受け流していた。だが、今の自分はどうだ。
少しでも身なりを整えようと、今の生活で精一杯背伸びして用意したシャツの袖口。そこからは、どれだけ洗っても落ちきらない煤汚れが、爪の端に僅かに覗いている。
◆
隣に座る恵美は、そっと窓の外を見つめていた。彼女もまた、言葉を失っている。慶太が緊張のあまり、何度も拳を握りしめては解いていることに気づいているのだろうか。
慶太の頭の中では、謝罪の言葉が何度も、何度も反芻されていた。
「申し訳ありませんでした」
「恵美さんを、裏切っていました」
「すべてを失いました」
どの言葉も、吐き出した瞬間に空虚な響きに変わりそうで怖かった。
瀬戸内海に沿って走る列車が、予讃線の急なカーブに差し掛かるたび、慶太の心も大きく揺れた。岡山へ進出し、一条の店を執拗に追い詰めていた頃の、あの狂ったような熱気はもうどこにもない。
ただ、四国の険しい海岸線を這うように進むこの列車のように、一歩ずつ、逃げ場のない過去へと近づいていく。
◆
「……慶太」
不意に恵美が口を開いた。慶太は弾かれたように彼女を見た。
「お父さん、きっと怒鳴るわよ。……覚悟、してる?」
恵美の小さな、けれどどこか温かみを含んだ声に、慶太は引きつったような笑みを浮かべた。
「ああ。……怒鳴られるだけで済めば、ありがたいくらいだ」
慶太は再び、自分の手を見た。
佐伯が嘲笑った通り、これはただの免罪符なのかもしれない。だが、この手が覚えている「粉の感触」と「熱い湯気」だけは、今の自分に残された唯一の真実だ。
松山が近づくにつれ、車内の静寂はいっそう深く、重くなっていった。
一粒の餃子を包むときよりも、ずっと長く、険しい時間が始まろうとしていた。




