第45話 過去は、過去
午前十時。慶太が市場への買い出しに出て、店内には恵美の立てる包丁の音だけが響いていた。
その静寂を破るように、男は音もなく現れた。
「……相変わらず、いい手際だ。かつての彼が、あなたのその献身を『数字』にしか見ていなかったのが、今更ながら惜しまれますよ」
聞き覚えのある、粘りつくような声。恵美の手が止まった。かつて二人の小さな店に「成功」という名の猛毒を持ち込み、慶太を怪物へと変貌させた男、佐伯。
「佐伯さん……」
恵美が顔を上げると、そこには場違いなほど高級なスーツを纏った佐伯が、煤の残る壁を値踏みするように眺めていた。
◆
「驚きましたよ。自転車を壊され、ゴミを焼かれても、まだここで泥を啜っている。……岡山のあの中華料理屋の娘、一条さんのことを思い出しますね」
恵美の胸に、鋭い痛みが走った。ひまわり食堂のすぐそばで、慶太に追い詰められていた店。その娘である一条は、父の店を救うために、そして慶太に復讐するために近づいたはずだった。
「彼女は健気でした。蓮見に近づき、懐に入り込んで一矢報いようとしていた。だが、皮肉にも蓮見の情に絆されてしまった。……復讐に燃えていた女が、仇である男に毒気を抜かれる。その様を特等席で見ていたのは誰だと思います?」
佐伯は一歩、恵美に詰め寄った。その瞳には、腸を煮え繰り返させるような愉悦が宿っている。
◆
「知っていましたか? 蓮見と出会う前から、彼女は僕の女だったんですよ。僕が彼女を蓮見に送り込み、利用した。彼が彼女を抱いている間、僕はその裏で彼を切り崩す準備を完璧に整えていたんです」
恵美の呼吸が止まる。慶太が「仕事」だと言って家を空けていた夜。彼が一条と向き合い、その裏で佐伯が糸を引いていた。かつての慶太が「愛」だと思っていたものも、「裏切り」だと思っていた不倫さえも、すべては佐伯の手のひらの上での出来事だったのだ。
「今の彼は、自分が壊した一条さんやその父親の真似事をして、この高松で免罪符を得ようとしているだけだ。自転車で汗を流し、ボロボロになって餃子を包む。それがどれほど自己満足で、汚らわしい行為か」
「……黙って」
「自転車を壊され、ゴミを焼かれる。それは誰の仕業でもない。彼が積み上げてきた絶望が、この店を包囲しているんだ。恵美さん、あなたが彼を支えれば支えるほど、その呪いはあなたにも伝染していくんですよ」
◆
佐伯が店を出ていくと同時に、表で自転車のブレーキが鋭く鳴った。重い荷物を積み、息を切らせて店に入ってきた慶太は、恵美の青ざめた顔を見て、担いでいた段ボールを床に置いた。
「恵美、どうしたんだ。顔色が悪いぞ」
慶太の問いかけに、恵美はすぐには答えられなかった。
佐伯が残していった毒は、一条という女性の絶望と、自分たちが信じてきた「やり直し」という名の砂上の楼閣を、今にも崩しそうな音を立てて鳴り響かせていた。
「……ううん、なんでもないわ。少し、立ちくらみがしただけ」
恵美は無理に笑ってみせた。だが、その瞳の奥には、消えない煤のような影が、深く、濃く、こびりついていた。
◆
慶太が心配そうに歩み寄り、恵美の肩に手を置いた。その瞬間、彼女の身体は、氷でも押し当てられたかのように微かに強張った。
(いいえ……なんでもない。本当に、なんでもないの)
恵美は、心の中で自分を抱きしめるように呟いた。
今、慶太の掌から伝わってくるのは、かつての高級外車を乗り回していた頃の清潔で冷たい温度ではない。連日の仕込みで荒れ、自転車のハンドルを握りしめて硬くなった、職人のごつごつとした節の感触。そして、微かに混じる煤の匂い。
佐伯が置いていった言葉は、猛毒だった。慶太が「蓮見」として頂点にいた頃に重ねていた裏切り、そして、かつての競合相手だった一条の娘を巡る、泥濘のような因縁。佐伯が彼女を送り込み、慶太を抱かせている間に、その裏で彼のすべてを奪い取る準備をしていたという、吐き気を催すような真実。
一瞬、めまいがした。自分が信じてきた今の「六車慶太」さえも、その汚濁の延長線上に過ぎないのではないか。そんな疑念が、黒い霧のように足元から立ち昇る。
◆
けれど、恵美はゆっくりと顔を上げた。
視線の先には、慶太が市場から必死で運んできた、瑞々しいキャベツが詰まった段ボールがある。火を放たれ、自転車を壊され、それでも泥まみれの顔を上げて、彼は明日を繋ごうとしている。
(そう……過去は、過去)
どれほど過去が黒く塗り潰されていようと、今、目の前で流されている汗までが偽物であるはずがない。たとえ、今のこの献身が彼なりの免罪符だとしても、その重荷を一緒に背負うと決めたのは、他ならぬ自分なのだ。
一条という女性が抱えていたであろう絶望。慶太がかつて踏みにじった人々の怨嗟。それをすべて飲み込んで、なおもこの男の隣に立ち続ける。それが、今の恵美にできる唯一の、そして最も過酷な贖罪の形だった。
◆
「……ねえ、慶太。今日のキャベツ、市場の親父さんはなんて?」
恵美は努めて穏やかな声を作り、段ボールに手を伸ばした。
「ああ。……みんな心配してくれていたよ。ゴミを焼かれたニュースを見たって。わざわざ一番いいのを奥から出してくれたんだ」
慶太は、かつての傲慢さを微塵も感じさせない、少し困ったような、それでいて温かい笑みを浮かべた。
「そう。よかった……さあ、急ぎましょう。十一時には、お客さんが来てしまうわ」
恵美は再び包丁を握り直した。まな板に当たる規則正しい音が、佐伯の残していった不吉な静寂を打ち消していく。
過去の罪は、消えない。一条という名の傷跡も、きっと一生、慶太の背中から消えることはないだろう。けれど、その痛みを分かち合いながら、一粒一粒、心を込めて餃子を包む。その繰り返しの先にしか、二人の未来はない。
「今の彼を、支える」
恵美は心の中で、その誓いを深く、静かに打ち込んだ。
厨房に立ち込める湯気。野菜を刻む音。
外では、高松の街が昼の活気に包まれようとしていた。
かつての裏切りも、佐伯の狂気も、今はただ、香ばしく焼き上がる餃子の香りの向こう側へと追いやられていった。




