第44話 歪んだ栄養
あの不穏な夜のニュースは、思わぬ形で物語の歯車を動かした。
翌朝のローカルニュースやSNSには、消火活動に当たる消防車の赤い光に照らされた、店の看板が映り込んでいた。暗がりに浮かび上がる「翠玉餃子」の文字。その数秒の映像が、かつての悪評を知らない人々や、逆にその名に聞き覚えがあった人々の好奇心を強く刺激したのだ。
「……お客さん、また増えたな」
慶太が仕込みの手を止め、店先の行列を覗き込んで呟いた。
火事の報せを聞いて駆けつけた常連客に加え、ニュースで店を知ったという新規の客が、次々と暖簾をくぐってくる。かつては誹謗中傷で埋め尽くされていたグルメサイトのコメント欄にも、少しずつ変化が起き始めていた。
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『ニュースで見て気になって来たけど、この水餃子の皮、信じられないくらい腰があって旨い。応援したくなる味。』
『ボヤ騒ぎに負けないで。香川にこんな旨い餃子屋があったなんて。』
『ネットの噂なんてどうでもいい。食べれば真面目に作ってるのが分かる。』
これまでの最低評価を塗りつぶすように、実直な感想と応援の投稿が積み重なっていく。
皮肉なことに、誰かが放ったはずの火が、慶太たちが必死に守ろうとしていた「味」に光を当てたのだ。
「慶太、注文が止まらないわ。翠玉水餃子、五枚追加ね」
恵美の声にも、どこか力強さが戻っていた。
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だが、慶太は浮き足立つことはなかった。客が増え、賞賛の声が届くほどに、彼はより慎重に粉を練り、より深く包丁を入れた。
「……宣伝になったなんて思ったら、また傲慢に戻ってしまう」
慶太は自分に言い聞かせるように、低く呟いた。
ネットの書き込みがどう変わろうと、自分たちがすべきことは変わらない。自転車は壊され、ゴミは焼かれたが、その煤を拭った手で、今日も一粒の餃子を包む。
賑わいを見せる店内の喧騒の裏側で、慶太はあえて自分を冷徹に律していた。
評価が逆転し、追い風が吹き始めた今だからこそ、足元を掬おうとする何かが、より深く、鋭くなっている。
高松の路地裏。
熱い湯気と客たちの活気に包まれながらも、慶太の背中には、拭い去れない冷ややかな予感が、うどんの腰のような粘り強さで、しがみついて離れなかった。
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「……くそっ、面白くない」
東京の片隅、薄暗い部屋で佐伯は吐き捨てるように呟いた。
手元のスマホの画面には、かつて自分が徹底的に叩き潰し、二度と這い上がれないよう泥を浴びせたはずの「蓮見慶太」の店が映っていた。
ニュースの映像、消防車のパトライトに照らされた『翠玉餃子』の看板。
嫌がらせのために放たれたはずの火が、皮肉にも宣伝媒体となり、グルメサイトには応援のコメントが溢れ始めている。皮の腰がどうだの、店主の覚悟がどうだの、反吐が出るような美辞麗句が並んでいた。
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「どうして……どうして俺はこんな目に遭ってるのに、あいつだけが……!」
佐伯は、震える手でスマホをデスクに叩きつけた。
全てを勝ち取ったはずだった。だが、今の自分に何が残っている? 虚飾にまみれた数字のゲームに敗れ、地位も、名誉も、かつての仲間さえも、砂のように指の間からこぼれ落ちていった。
今はただ、蓮見という自分より深く墜ちたはずの男が、苦しみ抜いて破滅する様を眺めることだけが、佐伯の乾ききった心の唯一の栄養だった。
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それなのに、あいつはまだ生きている。
自転車をバラバラにされ、ゴミを焼かれ、どれだけ地獄の底へ突き落としても、泥まみれの顔を上げて、また餃子を包んでいる。その執念じみた「正しさ」が、佐伯の腸を煮え繰り返させた。
「あいつが『本物』になんてなれるはずがない。あいつは俺と同じ、人を利用して数字を食い物にする側の人間なんだよ……」
デスクの上に散らばったのは、かつての蓮見の不祥事をさらに煽るための隠し撮り写真や、高松の店の周辺地図だった。
蓮見が、あの錆びた自転車を漕いで、市場へ向かう姿を想像する。
汗にまみれ、膝を震わせ、かつての自分なら一秒で切り捨てていたような「無駄な努力」を積み重ねる背中。
「……なら、最後の一漕ぎまで、地獄を味わせてやる」
佐伯の瞳に、湿り気のない冷酷な光が宿った。
それは、自分自身が失った「光」を掴みかけている男への、狂気じみた嫉妬だった。




