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第43話 利息

店内に立ち込める湯気の向こう、客たちの談笑が波のように寄せては返していた。

かつての『ハスミ』のような騒がしい賑わいではない。うどんの腰を宿した皮が奥歯で弾ける音を楽しみ、黄ニラの香りに静かに目を細める――そんな「食」と対峙する者たちが作る、重厚な活気がそこにはあった。

「……もう一皿、水餃子を」

カウンター越しに差し出される空の皿。慶太は言葉を返さず、ただ深く頷いて、再び粉の付いた手で生地に向き合った。

店が以前のような活気を取り戻すのに、そう時間はかからなかった。

ネットの掲示板やレビューサイトを開けば、そこには依然として最低の評価が並んでいる。過去の不祥事を掘り返す執拗な書き込み、自転車で市場へ向かう慶太を「偽善の買い出し」と揶揄する言葉。画面の中の「蓮見慶太」は、今も日本で最も嫌われている男の一人だった。

けれど、暖簾をくぐってくる客たちにとって、スマホの中の数字や文字は、この熱い一皿の説得力の前では(かすみ)のようなものだった。

「ネットじゃ色々言われてるけどさ……。結局、この味が答えだよな」

若者が連れにそう囁き、茹で上がったばかりの翠玉水餃子を口に運ぶ。

慶太はその声を、喜びとしてではなく、背筋を凍らせる警笛として聞いていた。

(評価されているのではない。俺は、いつこの皮を破ってしまうか試されているんだ)

恵美に突き刺された「傲慢」という言葉が、慶太の手元を狂わせない。

客が増え、賞賛の声が耳に届くたびに、彼はあえて市場への自転車のペダルを強く踏み込んだ。太ももを焼くような痛み、荷台に積んだ重い野菜の振動。肉体的な苦痛だけが、称賛という名の甘い毒から自分を遠ざけてくれる。

恵美は、忙しく立ち働く慶太の横で、淀みのない動きで皿を下げていた。

「慶太、次は白菜多めの餡ね。寒くなってきて、甘みが増してるわ」

「……わかった」

二人の会話は最小限だった。

再婚という約束も、愛の言葉もない。

だが、共に誹謗中傷の嵐の中に立ち、それでも目の前の客に嘘のない一皿を出し続ける。その沈黙の共犯関係は、どんな誓約書よりも強く二人を縛り、支えていた。

外は、冷ややかな視線を投げかけるネット住民の指先が躍る暗闇。

中は、うどんのように粘り強く、決して破れない皮に包まれた熱狂。

慶太は、沸き立つ大鍋を見つめながら、自分の人生もまた、この熱湯の中で鍛えられているのだと感じていた。

評価はどん底のまま。けれど、その底からしか見えない景色がある。

彼は、恵美がいつか差し出そうとしている「覚悟」にまだ気づかないまま、ただ一粒の餃子の中に、己の全存在を閉じ込めようとしていた。

翌朝、慶太が裏口の重い鉄扉を開けた瞬間、冷たい空気と共に、言葉を失うような光景が目に飛び込んできた。

「……っ」

買い出しに向かうため、いつものように手を伸ばそうとした先。そこに、慶太が毎日頼りにしてきた自転車の面影はなかった。

一晩のうちに、それは徹底的な悪意によって解体されていた。前後のタイヤは鋭利な刃物で、まるで生き物の皮を剥ぐように幾重にも切り裂かれ、内側のチューブが力なく地面に這い出している。細いスポークは、一本一本、人間の指を折るような執拗さで叩き折られ、無残な曲線を描いて虚空を指していた。

そして、引き裂かれたサドルには、赤黒いスプレーで「人殺し」と殴り書きされていた。

「慶太、どうしたの……?」

背後から追ってきた恵美が、慶太の肩越しにその惨状を見て、短く悲鳴を上げた。

「……ひどい。こんな、あんまりだわ。誰がこんなことを」

恵美は震える手で口を覆い、膝を折った。この自転車は、慶太がかつての虚飾を捨て、自分の脚の力だけで一歩ずつやり直そうと決めた、その覚悟の拠り所だった。

慶太は何も言わず、ただ泥に汚れたフレームの前に膝をついた。

特定の誰かの顔は浮かばなかった。いや、浮かびすぎて絞り込めないのだ。

ひまわり食堂さん、一条の中華料理屋……。自分が「効率」と「拡大」の名の下に、路地裏から追い出した無数の店主たち。あるいは、その家族。日本中に散らばっている、自分がかつて踏みにじった人々の、底知れない怨嗟。

自分が過去に撒き散らした悪意の総量が、形となって、今ようやく自分の足元を(すく)いに来たのだ。慶太はそう直感した。

「慶太、警察を……警察を呼びましょう。こんなの、嫌がらせじゃ済まないわ」

「……いや、いいんだ、恵美。呼ばなくていい」

慶太は、静かに、けれど拒絶の意志を込めて首を振った。

「俺が壊してきたのは、自転車なんて安いものじゃない。数えきれないほどの人の生活や誇りを、俺はもっと無残に、もっと冷酷に壊してきたんだ。これは、その利息みたいなものだ」

慶太はボロ布を取り出すと、サドルに書かれた呪詛を、黙々と拭い始めた。ペンキはすでに乾きかけていて、簡単には落ちない。爪が剥げそうになるほど力を込め、真っ黒な油と赤い汚れが混ざり合うのを、彼はただ凝視していた。

評価が上がり、店に客が戻り、翠玉水餃子が認められる。

その「成功」の兆しが見えるたびに、それを許さない誰かの怒りが、闇の中から礫を投げてくる。それでいい、と慶太は思った。むしろ、これくらいの痛みがないと、自分がまた傲慢な怪物に戻ってしまうのではないかと、心のどこかで怯えていた。

「俺は、このボロボロの自転車を直すよ。直して、また明日も市場へ行く」

慶太は歪んだ車輪を抱え、店の中へと運び入れた。

市場へは、今日は歩いて行くしかない。だが、明日はこの破片を繋ぎ合わせて、また漕ぎ出す。

「もう一度、やるだけだ」

朝の光が、無残に折れたスポークを冷たく照らしていた。

顔の見えない「誰か」からの、終わりのない断罪。

それでも慶太は、折れた心を持ち上げ、再び粉の付いた手を動かそうとしていた。

二人の日常を侵食し始めた、実体のない恐怖。

その暗闇の中で、慶太は自分の内側にある「傲慢」という棘を、より深く、自らの肉体に突き刺していた。

追い討ちをかけるように。

深夜、アパートの窓から見える高松駅の周辺が、不自然に騒がしかった。

静まり返った街を切り裂くように、何台もの赤い光が駅前へ集結していく。サイレンの音はすでに止んでいたが、複数のパトライトが規則的に放つ点滅が、遠くのビルの壁面をせわしなく、冷ややかに舐めていた。

「……火事かしら。駅の方、すごいわよ」

隣に立つ恵美の言葉に、慶太は答えなかった。胸の奥に、言葉にできない不吉な予感が澱のように溜まっていく。ここまで煙の臭いは届かない。だが、その静かな遠くの騒ぎが、かえって慶太の心臓を激しく打ち鳴らした。

慶太は上着を掴んで部屋を飛び出した。

「慶太! どこへ行くの!」

背後で叫ぶ恵美の声を置き去りにして、夜の街を走り出した。自転車はあの日、バラバラに壊されたままだ。自分の足で、アスファルトを蹴って進むしかない。

息を切らし、店のある路地裏へ続く角を曲がったとき、慶太は足を止めた。

消防車が取り囲んでいたのは、駅近くの路地に面した、店のゴミ集積所だった。そこには、前日の夜に慶太がまとめた、大量の白菜の外殻や野菜のクズが積まれていたはずだった。

消防隊員が放つ水が、黒く焼け焦げたゴミの山を叩いている。

店舗本体に火は回っていなかった。ただ、店から出たものだけが、真っ黒な炭となって積み上がっていた。

「六車さん……」

駆けつけた恵美が、水浸しで異臭を放つ残骸を見て、絶句した。

「……自転車だけじゃなくて、今度は火まで」

恵美は震える手で自分の腕を抱きしめた。

なぜ、誰が、何のために。理由も、犯人も分からない。ただ、日常のすぐ隣に、逃げ場のない何かが漂っていることだけが、視覚的な暴力となって突きつけられていた。

現場を検証していた警察官が、焦げたゴミの山から目を離さずに慶太へ声をかけた。

「店主さん、店舗の外を映す防犯カメラはありますか?」

慶太は、(すす)で汚れた手を見つめたまま、力なく首を振った。

「……いえ。そんな、余裕はなくて。入り口のダミーカメラがあるだけです」

「そうですか。駐輪場の防犯カメラも、死角になっていたようでしてね。最近、不審な人物を見かけたりは?」

「……わかりません。毎日、必死で……」

慶太の声は、驚くほど静かだった。

評価は最低。自転車は壊され、今度は店のゴミを焼かれた。

ただ、自分が自分であることを許されないような、冷徹な現実がそこにあるだけだった。

「片付けよう。……夜が明ける前に、きれいにしないといけない」

慶太は、まだ熱を持った残骸に手を伸ばした。真っ黒な煤が指先にまとわりつく。

恵美はそんな慶太の横に膝をつき、黙って一緒に作業を始めた。

駅の方の喧騒は、少しずつ収まりを見せ始めている。

だが、路地裏に立ち込める焦げ臭い空気は、いつまでも消えなかった。

恵美は、煤だらけになった慶太の横顔を、痛々しいほどの決意で見つめていた。

二人の夜は、沈黙の中に、より深い影を落としていった。

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