第41話 傲慢という名の免罪符
夜の営業が終盤に差し掛かった頃、重い足取りで一人の男が暖簾をくぐった。
見覚えのある顔だった。かつて「ハスミ」の岡山地区でフランチャイズを経営していた男だ。数年前、利益を優先させるあまり賞味期限の偽装に手を染め、一条の手によって強制的に加盟契約を解除された人物だった。
男は、慶太の節くれ立った手と、恵美の顔を交互に見て、力なく笑った。
「……やっぱり、あんただったか。ネットの噂を見て、まさかと思ったが」
男の服は汚れ、かつてのオーナーとしての威勢はどこにもなかった。慶太は、まな板に置いた包丁を止め、静かに男を見据えた。
◆
「……あんたに首を切られてから、俺の人生は真っ暗だ。借金だけが残って、家族も離れた。あんたもすべて失ったと聞いた時は、正直、ざまあみろと思ったさ。……でも、あんたはこうして、また自分の名前で、自分の手で始めてる」
男はカウンターに座り、震える手でメニューを指差した。
「一皿、食わせてくれ。俺を地獄に突き落としたあんたが、どんな面して餃子を焼いてるのか……確かめに来たんだ」
店内には、かつての「ハスミ」という巨大な歯車の一部だった二人の間に、重苦しい空気が流れた。恵美は言葉を発せず、ただ慶太の背中を見守っている。慶太は、何も言わずに冷蔵庫から、岡山で手に入れたばかりの黄ニラを取り出した。
◆
包丁の音が、静かな店内に響く。
男が手を染めた「偽装」は、食を軽んじた結果だった。そして、それを管理しきれず、自らも効率に溺れた会社もまた、同じ穴の狢だったのだ。
鉄鍋に餃子を並べる。
パチパチと焼ける音と共に、黄ニラの気品ある香りと、キャベツの甘い蒸気が立ち上る。かつての「ハスミ」の、工場で作られた均一な餡の匂いとは、似ても似つかない。
「……お待ちどうさま」
差し出された『翠玉包み』を、男は震える箸で掴み、口に放り込んだ。
一口、二口。男の動きが止まる。
やがて、男の目から大粒の涙が溢れ、カウンターの木目に落ちた。
◆
「……なんだよ、これ。全然、違うじゃないか」
「……」
「俺たちが売ってたのは、何だったんだ。あんた、こんなもんを作れる手をしてたのに……なんであんな、数字だけのものを作らせてたんだよ」
男は嗚咽を漏らしながら、残りの餃子を口に詰め込んだ。
かつて同じ罪を背負い、泥水を啜ってきた者だからこそ分かる味。そこには、二年以上市場で這いつくばり、自分の名前を捨ててまで食材と向き合った慶太の、痛いほどの後悔が詰まっていた。
男は顔を上げないまま、代金を置いて立ち上がった。
「……悔しいな。あんた、いい店を作ったな」
男は背中を丸め、夜の路地へと消えていった。
慶太はその背中を追わず、ただ黙って、男が残した空の皿を下げた。
「……慶太」
恵美が、そっと隣に立った。
「……ああ。俺たちは、あの人らの人生も背負っているんだな」
過去という十字架を背負ったままの二人。
自分たちの焼く一皿が、誰かの過去を抉り、同時に誰かの涙を誘う。
岡山から持ち帰った黄ニラの香りが、今はどこか、ほろ苦く店内に残っていた。
◆
閉店後の片付けをしながら、慶太はふと手を止めた。先ほどの元オーナーの後ろ姿が、脳裏から離れなかった。
「……恵美。あいつだけじゃないんだ」
慶太の声は、絞り出すように低かった。
「ひまわり食堂さんも、一条の中華料理屋さんも……俺たちが効率と拡大を急ぐ陰で、同じように踏みつけ、苦しめた人たちが全国にいる。名前も思い出せないくらい、たくさんの店を、人生を、俺は壊してきたんだ」
市場で野菜を運んでいるとき、ふとした瞬間に思い出す顔がある。仕入れ値を叩かれ、契約を打ち切られ、それでも頭を下げていた人たち。かつての自分は、それを「ビジネスの淘汰」だと切り捨てていた。
慶太は、まな板の上に残った一枚のキャベツの葉を見つめた。
「いつか……この店のことが一段落したら、行脚して謝罪して回りたい。この翠玉包みを焼くための道具を持って、一軒一軒、頭を下げて回りたいんだ」
◆
恵美は、カウンターを拭いていた手を止め、真っ直ぐに慶太の目を見つめた。
「慶太。……それは、まだ少し傲慢だわ」
慶太は、不意を突かれたように言葉を失った。
「餃子を焼いて、食べてもらって、それで許しを請うつもり? ……それは、あなたがまだ『自分の味なら納得してもらえる』って、どこかで自惚れているからじゃないかしら」
恵美の言葉は、慶太の胸の奥にある、無意識の自負を容赦なく射抜いた。
「ひまわり食堂さんも、一条さんも、あなたが壊したのは彼らの『生活』そのものよ。あなたが一生懸命作った餃子を一口食べて、『ああ、美味しくなったから許そう』なんて、そんなに簡単なことじゃない。……食べたくもない人の前に、今の自分の自信作を差し出すのは、それはあなたの押し付けでしかないわ」
◆
慶太は、節くれ立った自分の手を見つめた。
良い食材を使い、手間をかけ、魂を込めて包めば、いつか過去を帳消しにできる。そんな「職人の免罪符」を無意識に求めていた自分に、彼は初めて気づいたのだ。
「……そうか。俺は、また自分の土俵に相手を上げようとしていたんだな」
「そうよ。謝りに行くなら、手ぶらで行きなさい。何も持たず、何の見返りも期待せず、ただ罵倒されるためだけに。……そこで焼くのは、相手が『どうしてもお前の餃子が食べたい』って言ってくれた時だけでいいの」
慶太は深く、深く吐息をついた。
岡山で見た黄ニラも、市場のキャベツも、それ自体に罪はない。けれど、それを使って「許し」を請おうとするのは、食材に対しても、かつて傷つけた人々に対しても、あまりに失礼なことだった。
◆
「……俺はまだ、何も分かっていなかった。職人に戻ったつもりで、まだ『蓮見慶太』の傲慢さを引きずっていたんだな」
「いいのよ。それに気づけたんだから」
恵美は、少しだけ和らいだ表情で慶太の隣に立った。
「まずは、この高松の路地裏で、名前も名乗らずに働き続けること。誰に褒められなくても、誰に許されなくても、毎日同じように包み続けること。……行脚するのは、そのずっと先の話よ」
「……ああ。そうだな、恵美」
慶太は、再びまな板に向き合った。
誰かに届けるためではなく、ただ、己の罪の重さを噛み締めるように、黙々とキャベツを刻む。
法的な絆のない二人の間に流れるのは、甘い慰めではなく、互いの魂の汚れを指摘し合うような、峻厳で、けれど真実の愛だった。
夜明け前の静寂。
慶太は、ただ一人の「六車慶太」として、何の見返りもない明日の仕込みを、静かに、そして泥臭く始めるのだった。




