第40話 光の当たらない場所で
閉店後の静まり返った店内で、慶太はカウンターに置かれた一通の封筒を見つめていた。宛名には、恵美の旧姓である「六車」の名が記されている。
二人は今、同じ屋根の下で一つの鉄鍋に向かい合っているが、その関係を繋ぐ法的な書類は何一つなかった。二年前のあの日、慶太の失墜と共に離婚届を出し、恵美は一度「蓮見」の名を捨てた。そして今、共に暮らしていても、二人はまだ正式な再婚をしていない。
「……恵美。籍のこと、今はまだ、そのままでいいからな」
洗い物を終えた慶太が、湯気の向こう側にいる恵美へ静かに語りかけた。慶太が「六車」と名乗ることを決めたのは、再婚を急ぐためではない。かつて傲慢さゆえに彼女を傷つけた己への戒めであり、彼女が一人で守り抜いてきた「六車」という人生への敬意だった。
「俺は、お前に甘えすぎていた。蓮見慶太としてすべてを失った俺が、すぐにまた夫の座に戻るなんて……そんな資格、今の俺にはまだないと思ってる」
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恵美は、手を休めて夜の窓に視線を落とした。街灯が路地を淡く照らしている。
「慶太。私はね、紙切れ一枚の安心が欲しくて戻ってきたわけじゃないのよ。あなたが自分の誇りを捨ててまで私の旧姓を名乗ると言ってくれた時、私たちの絆は、もう言葉以上のものになったと思ってる」
恵美は伏せていた目を上げ、慶太の節くれ立った手を見つめた。市場で重いコンテナを運び、指先を凍らせながらキャベツを刻み続けた、職人の手。
「でも、今はまだ、この距離がいいのかもしれない。……ネットの悪意が収まらないうちに籍を戻せば、また『六車』の名に余計な汚れがつくかもしれないし」
彼女の言葉には、慶太を守り、そして自分たちの新しく清らかな出発を守ろうとする、静かな決意が宿っていた。
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「……済まない。俺は本当に、お前に背負わせてばかりだ」
「いいのよ。その分、もっとキャベツと向き合って。今の私たちの関係は、この翠玉包みの皮と同じ。薄くて繊細だけど、中には誰にも負けない熱い想いが詰まっている。それで十分じゃない?」
慶太は深く頷き、再び包丁を握った。
正式な再婚をしていないからこそ、二人の間には、昨日よりも今日、今日よりも明日、より良い味を届けるという職人同士のような、心地よくも張り詰めた敬意が流れていた。
佐伯が都会の喧騒の中で、虚飾の肩書きと数字に縋りついて自滅していくのを他所に、六車慶太と恵美は、形のない真実の絆を、黄金色の黄ニラと共に静かに包み込んでいく。
夜明け前の高松。二人の新しい一日は、再婚というゴールではなく、一皿の餃子を極めるという終わりのない旅路として、今、再び始まろうとしていた。
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高松駅前で借りたコンパクトなレンタカーは、瀬戸大橋の継ぎ目を軽快なリズムで叩きながら、岡山へと向かっていた。
運転席の慶太は、かつて高級外車を乗り回していた頃には感じなかった、路面の振動やエンジンの小さな唸りを心地よく感じていた。隣に座る恵美も、窓の外に広がる瀬戸内海の多島美を眺めながら、穏やかな表情を見せている。
「レンタカーなんて、何年ぶりかしら」
「……ああ。でも、今の俺たちには、これくらいがちょうどいいな」
自分たちの所有物ではない、借り物の時間。それは、まだ籍を戻さず、一歩ずつ慎重に人生を歩み直している二人の関係に、どこか似ている気がした。
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やがて車は、岡山市郊外の静かな農村地帯へと入った。
案内された黄ニラ農家の男性は、慶太の節くれ立った手を見るなり、親しみを込めて笑った。
「あんた、いい手をしてるな。土を触っている人間の手だ」
そう言って案内された暗室のような小屋の中で、慶太と恵美は、黒い遮光シートの下に眠る「黄金」と対面した。
「……これが、あの翠玉の正体か」
光を遮られ、静寂の中で育つ黄ニラ。それは、派手なスポットライトを浴びていた頃の自分ではなく、暗い市場の片隅で泥にまみれていた二年間、自分を支えてくれた静かな情熱そのものに見えた。
「太陽に当たらない分、根っこから吸い上げた栄養を、全部自分の甘みに変えるんです。甘やかされて育った青ニラには出せない、辛抱の味ですよ」
農家の言葉を噛み締めながら、慶太は土に膝をつき、その一本をそっと指でなぞった。
「俺たちの餃子も、こうありたいな」
「ええ。光が当たらない時期があったからこそ、今の味があるんだものね」
恵美も隣で屈み込み、黄金色の穂先を愛おしそうに見つめている。
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帰りの車内。レンタカーの狭い後部座席には、分けてもらったばかりの黄ニラが、束になって並んでいた。エアコンの風に乗って、車内には鮮烈で、どこか懐かしい香りが満ちていく。
「慶太、見て。夕陽が黄ニラと同じ色」
瀬戸大橋の上、沈みゆく夕陽が海を黄金色に染め上げていた。
自分たちの店もなく、家庭も壊れ、名前さえ名乗れなかったあの暗闇の日々。そこから吸い上げた栄養を、今、一皿の「翠玉包み」に変えている。
高松駅近くのレンタカー営業所に車を返したとき、二人の心は、出発前よりもずっと深く、そして静かに繋がっていた。
「さあ、帰ろう。明日から、もっといいものが包める気がする」
「ええ、市場のキャベツも、きっと待ってるわ」
恵美の冗談に慶太は小さく笑い、二人は夜の路地裏へと歩き出した。
法的な絆はなくとも、同じ香りを身に纏い、同じ重荷を背負って歩く。その背中には、もう迷いも、見栄もなかった。




