第39話 大地の味
男が去った後の静寂の中で、慶太と恵美はしばらくの間、動くことができなかった。
「とんでもないものを背負っとる」
その言葉が、二人の胸の奥底に溜まっていた澱を、温かな涙と共に洗い流していく。ネットの悪意や過去の罵声にさらされ、強張っていた心が、ようやく解けていった。
慶太は涙を拭うと、まな板の前に立ち、隣で同じように目を腫らしている恵美に向かって力強く頷いた。
「恵美、黄ニラだけじゃない。キャベツだ。もっとキャベツの力を引き出さなきゃいけない」
◆
慶太は、市場の親父たちが「今日はこれが一番だ」と誇らしげに手渡してくれた、大ぶりのキャベツを手に取った。
これまでは黄ニラの鮮烈な香りを際立たせることに集中していた。だが、あの老客の言葉を聞いて気づいたのだ。自分の背負った過去の重さを受け止めるには、黄ニラの華やかさだけでは足りない。土の匂いがする、どっしりとしたキャベツの甘みが必要なのだと。
慶太は包丁を入れ、キャベツの部位ごとに刻み方を変えていく。
外葉の力強い食感、芯に近い部分の濃厚な糖度。それを、以前にも増して細かく、しかし食感を殺さない絶妙な加減で刻んでいく。
「キャベツは、この街の土そのものだ。黄ニラが光なら、キャベツはそれを支える大地なんだな……」
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慶太は、刻んだキャベツから溢れ出す水分を、一滴も無駄にしないよう慎重に餡へと練り込んでいく。肉の脂を吸い、黄ニラの香りを抱き込んだキャベツが、蒸し上げられることで最高のご馳走へと変わる。
「慶太、見て。キャベツが透き通って、本当に翡翠みたい……」
恵美が感嘆の声を漏らす。
包み上げられた「翠玉包み」は、以前よりも一回り大きく、ふっくらと、そして確かな重量感を備えていた。それは、二人が流した涙と、背負った覚悟の分だけ、深みを増した一皿だった。
◆
「よし、焼くぞ」
鉄鍋の上で踊る餃子。
立ち上がる蒸気には、黄ニラの高貴な香りに加え、キャベツが焦げる際の、どこか懐かしく甘い匂いが混じり合っている。
二人は、出来立ての一粒を分け合った。
口に入れた瞬間、キャベツの圧倒的な瑞々しさが弾け、その後に黄ニラの香りが鼻に抜ける。
不器用で、泥臭くて、けれどどこまでも優しい。
「……これだ」
慶太は確信した。
佐伯が都会で「効率」を追求し、ネットの数字に一喜一憂している間、慶太は高松の路地裏で、土の命と向き合っていた。
画面の中の悪評など、もう怖くない。
このキャベツの甘みが、この黄ニラの香りが、自分たちがここで生きている証なのだから。
「いらっしゃいませ!」
再び暖簾が揺れる。
慶太と恵美は、今度は迷いのない笑顔で、新しい客を迎え入れた。
背負ったものの重さを、最高の旨味に変えて。
◆
本当の戦いはここからだった。
高松の路地裏に灯る『翠玉包み』の灯りは、寄せては返す波のような日々の中にあった。
あの年配の男性が連れてきてくれた客や、鼻をくすぐる本物の香りに誘われた人々が、「これは美味しい」と笑顔を置いていく。しかし、ようやく店に活気が戻りかけたと思えば、またネットの海に新しい毒が撒かれる。
「やっぱり元ハスミの社長らしい」「名前を変えても過去は消えない」
心ない書き込みが踊るたび、翌日の客足は目に見えて遠のいた。喜びと落胆の激しい繰り返し。それは、まるで慶太の覚悟を試し続けているかのようだった。
◆
「……慶太、また書かれてる。今日は一人も来ないかもしれないわね」
恵美が寂しそうに呟く朝も、慶太は黙ってまな板に向かった。
「いいんだ、恵美。客が来ない時間は、もっと美味しくするための時間にすればいい」
慶太は、市場から届いたばかりの力強いキャベツを抱え上げた。
外皮の少し硬い部分は細かく刻んで歯ごたえと甘みを。内側の柔らかな葉は、肉の旨味を吸わせるために。部位ごとに厚さを変え、キャベツが持つ生命力のすべてを、岡山の黄ニラの高貴な香りで包み込んでいく。
誹謗中傷で客が減るたびに、慶太の餃子はより深く、より密に、その完成度を高めていった。
◆
「今日は昨日より、キャベツの甘みが立ってる。……これなら、どんなに悪く言われて来た人でも、一口で黙らせられるはずだ」
佐伯が画面の向こう側で、いくら虚偽の言葉を積み上げようとも、慶太はそれ以上の厚みを持った「味」という現実を積み上げていった。
ある雨の日、ネットの悪評を見て確かめに来たという若い男が、一粒食べた瞬間に箸を止め、スマホを鞄に仕舞い込んだ。
「……ネットじゃボロカスでしたけど、これ、全然違いますね。めちゃくちゃ温かい味がする」
その一言のために、慶太は毎日泥にまみれてキャベツを運び、指を切るような寒さの中で仕込みを続けた。
増えては減り、減ってはまた少し増える。
その繰り返しは、かつての派手なハスミ時代のような爆発力はないけれど、残ってくれた客の心には、消えない翠玉の輝きを刻み込んでいった。
慶太は鉄鍋の熱さを感じながら、隣にいる恵美を見て微笑んだ。
二人で背負った十字架は、今、キャベツと黄ニラの香りと混ざり合い、誰にも真似できない「六車慶太」だけの重厚な味へと昇華されつつあった。




