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第38話 十字架の味

開店の暖簾(のれん)を掲げたものの、現実は甘くなかった。

ネットに蔓延(はびこ)る悪評の影響は想像以上に大きく、人通りのある路地裏にありながら、客足は驚くほど鈍かった。時折、店の前で足を止める人がいても、スマホの画面と看板を見比べ、怪訝(けげん)な顔をして通り過ぎていく。

さらに慶太の心を削ったのは、かつての「ハスミ」を知る旧来の常連客たちの言葉だった。

「おい、蓮見さんじゃないか。……いや、今は『六車』だっけ? 名前を変えてまで、また餃子を売るのか。あんな事件を起こしておいて、面の皮が厚いね」

「昔のあんたの餃子は勢いがあったけど、こんな小さいうどん屋の跡地でコソコソやるなんて、落ちぶれたもんだ」

嫌みを言いに来るためだけに立ち寄る客。冷ややかな視線を投げ、何も注文せずに去っていく者。

慶太は、それらすべての言葉を、逃げずに正面から受け止めた。

「……申し訳ありません。ご意見、肝に銘じます」

深く頭を下げる慶太の横顔を、恵美は辛そうに見つめることしかできなかった。どれだけ誠実な食材を使い、どれだけ真摯に鉄鍋に向き合っても、過去という亡霊が、彼らの「翠玉包み」の香りを遮っているかのようだった。

カウンターに客が一人もいない、重苦しい時間が流れる。

慶太は、節くれ立った自分の手を見つめた。市場で泥にまみれ、野菜を運び続けた二年間。ようやく掴んだはずの再起の光が、誹謗中傷と過去の過ちという厚い雲に覆われていく。

「慶太……」

恵美が声をかけようとしたその時、慶太は静かに立ち上がり、包丁を握り直した。

「……恵美。客が来ないなら、この匂いを外まで届けるだけだ」

彼は、贅沢なほどに岡山の黄ニラを刻み始めた。

ザクッ、ザクッ、と、繊維を潰さない鮮やかな音が、無人の店内に響く。

そして、慶太は鉄鍋に火を入れた。

ジュワッという激しい音と共に、一気に厨房の熱気が上がる。

これまでの「ハスミ」の餃子のような強烈なニンニクの匂いではない。黄ニラの気品ある香りと、厳選したキャベツの甘い蒸気が、重い空気の立ち込める路地裏へと流れ出していった。

「誰が何を言おうと、俺が今、何を作っているかは、この一皿が証明してくれる」

慶太の目は、過去の罵詈雑言ではなく、ただ目の前の鉄鍋の温度と、食材の呼吸だけを見つめていた。

佐伯が画面の向こうで冷笑を浮かべていようと、かつての常連が背を向けようと、この香りが届く距離に、必ず「本当の味」を待っている人がいる。

彼は、自分のすべてを練り込んだ餃子を、祈るように焼き続けた。

誰もいないカウンターに向かって。

その鮮烈な香りは、悪意に満ちたデジタルの言葉を切り裂くように、夜の高松の街へと静かに、しかし力強く広がっていった。

日が沈み、路地裏に冷たい風が吹き抜ける頃、一人の年配の男が暖簾を潜った。

男は手にしたスマホの画面を不機嫌そうに慶太に突きつける。

「おい、ここか。ネットで『稀に見る不衛生な店』だの『名前を変えたペテン師』だの、ボロクソに書かれておるのは」

男はカウンターに座るなり、品定めをするような冷ややかな目で慶太を睨みつけた。

「これほど評価の低い店、逆にどんな不味いものを出すのか気になってな。毒見のつもりで一皿焼いてみろ。……六車、だったか?」

慶太は何も言い返さず、ただ深く一礼した。

「……承知いたしました」

厨房に入った慶太の動きに、迷いはなかった。

市場で選び抜いた瑞々しいキャベツ。そして、黄金色の輝きを放つ岡山の黄ニラ。包丁がまな板を叩くリズムは、祈りにも似た正確さで刻まれる。

やがて、鉄鍋からパチパチと軽快な音が響き、黄ニラの気品ある香りが店内に立ち込めた。嫌みを言っていたはずの男が、不意に鼻先をぴくりと動かす。

「……ほう」

差し出された「翠玉包み」は、見事な羽根を纏い、翡翠のように透き通った野菜の命を湛えていた。男は箸を伸ばし、一口、その餃子を口に運んだ。

咀嚼する音が止まる。

男は目を見開き、口の中に広がる鮮烈な香りと、素材同士が奏でる深い滋味に打ち震えているようだった。かつての「ハスミ」が売っていたような、刺激だけの味ではない。そこには、一人の人間が泥を舐め、痛みに耐え、それでもなお「良きもの」を届けようとする、凄まじいまでの「体温」が宿っていた。

男は箸を置き、長く、重い息を吐き出した。

そして、慶太の節くれ立った手と、その奥にある眼差しをじっと見つめ、静かに口を開いた。

「……お主。とんでもないものを背負っとるのだな」

その声には、先ほどまでの冷やかしは微塵もなかった。

「この味は……小細工や嘘で出せるものではない。どれほどの後悔と、どれほどの研鑽を積めば、これほどまでに『人間』の味がするものが作れるようになるのか……」

男は、ネットの画面に並ぶ醜い言葉を指差し、鼻で笑った。

「画面の向こうで石を投げている連中には、一生かかっても分からん味だ。……お主が背負っている『過去』という十字架が、この黄ニラの香りをここまで深くしておるのだな」

慶太は、その言葉を喉の奥で受け止めた。恵美もまた、カウンターの隅で静かに目頭を押さえている。

「……ありがとうございます」

「礼などいらん。……また来る。次は、ネットなど信じぬ連中を連れてな」

男は代金をカウンターに置くと、背筋を伸ばして店を出て行った。

佐伯が画面の向こう側でどれだけ悪意の火を焚こうとも、一度触れた本物の熱を消すことはできない。

慶太は再び、包丁を握った。

背負ったものの重さが、今は誇らしかった。その重みがあるからこそ、翠玉の輝きは誰にも真似できない色を放つのだと、一人の客が教えてくれたのだから。

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