表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
38/57

第37話 六車慶太

高松駅近くの路地裏。開店を数日後に控えた居抜き物件の店内で、慶太は頭を抱えていた。

「……蓮見餃子が、使えない」

商標調査の結果、かつての「ハスミ」に関連する名称や、類似する「蓮見餃子」という名は、法的・権利的なしがらみで登録できないことが判明したのだ。佐伯によって汚された「蓮見」という名。再出発の看板に掲げるには、あまりに多くの毒が混じりすぎていた。

カウンターで項垂れる慶太の隣で、恵美は静かにバッグを開き、一通の封筒を取り出した。

「慶太。その名前はもう、捨てなさいってことよ。……代わりに、これを使って」

彼女が差し出したのは、二年前、家を出る際に密かに彼女が個人名義で手続きを済ませていた、商標登録の受領証だった。

「あなたがまだ社長だった頃に言っていたでしょう? いつか二人で、本当に納得できるものだけを包む店を作りたい。その時は『翠玉包み』にしたいって。佐伯さんに奪われないように、あの時、私が守っておいたの」

受領証には、力強い筆致で『翠玉包み』の名が刻まれていた。

慶太は言葉を失った。効率と拡大に憑りつかれていた頃の自分との約束を、恵美はずっと、大切に抱きしめてくれていたのだ。

「翠玉包みは……お前が持っていてくれたのか。……ありがとう、恵美」

慶太は溢れそうになる涙を堪え、その紙を握りしめた。さらに彼は、もう一つの決意を口にする。

「店の名前は決まった。……そして恵美、俺は名字も変えるよ。蓮見を捨てて、お前の旧姓をもらいたい。俺を、六車慶太にしてくれないか」

恵美は驚いたように目を見開いたが、すぐに優しく微笑んだ。

「……いいわよ。讃岐の『六車(むぐるま)』。土の匂いがする、不器用で真っ直ぐなあなたの名前に、ぴったりだわ」

翌日、店の前には一枚の清々しい木看板が掲げられた。

そこに刻まれたのは『翠玉包み』。

厨房では、市場で仕入れたばかりの岡山の黄ニラが、慶太の手によって黄金色の餡へと変わっていく。

「六車さん、開店おめでとう!」

市場の仲間たちの威勢のいい声が響く。

佐伯が「鰻八」という虚飾の城とともに自滅し、戒告の中で孤独に沈んでいくのを他所に、六車慶太は、自分を信じて待ってくれた妻と共に、新しい火を灯した。

翠玉の輝き。それは、一度すべてを失い、泥にまみれて働き抜いた男だけが包める、真実の味だった。

高松の路地裏、開店を直前に控えた「翠玉包み」に、冷ややかな悪意が影を落とした。

ネット上のグルメサイトやSNSに、根も葉もない誹謗中傷が次々と書き込まれ始めたのだ。

『元食中毒企業の再生品』

『不衛生な食材の使い回し』

まだ開店前だというのに、最低評価の星が並び、悪意に満ちた言葉の(つぶて)が慶太たちを襲う。

慶太は、厨房でスマホの画面をじっと見つめていた。

かつての自分なら、この卑劣な手口の裏に誰がいるのかを血眼になって探し、復讐心に燃えていたかもしれない。しかし、今の彼は違った。

「……誰がやっているかは、どうでもいいんだ」

慶太は静かにスマホを置いた。それが佐伯の仕業である可能性など、今の彼の頭にはなかった。誰かの恨みを買ったのか、あるいは単なる悪戯か。そんな推測に費やす時間は、今の慶太には一秒も残されていない。

「恵美。……俺たちは、俺たちのやるべきことをしよう」

慶太が目を向けたのは、まな板の上に並んだ岡山の黄ニラだった。

市場の仲間たちが「一番いいやつだ」と笑って持たせてくれた、黄金色の命。この香りを、この甘みを、最高の一皿に仕上げること。それだけが、外野の雑音に対する唯一の答えだと知っていた。

「そうね、慶太。……嘘の言葉は、本物の味に触れれば消えてしまうものよ」

恵美もまた、揺らぐことなく開店の準備を進めていた。画面の中の虚像ではなく、目の前の現実だけを見つめていた。

翌朝、市場へ向かうと、顔馴染みの仲卸たちが慶太の肩を叩いた。

「六車さん、変な噂があるみたいだが、気にするなよ。あんたがどれだけ泥にまみれて働いてきたか、俺らが証明してやる」

佐伯が都会の片隅で、戒告の身でありながら必死に匿名のアカウントを操り、慶太の足を引っ張ろうと躍起になっていることなど、今の慶太には届かない。

慶太が鉄鍋に火を入れる。

ジュワッという音と共に、黄ニラの鮮烈な香りが店内に広がった。

どれだけ泥を投げつけられようと、自分たちが練り上げた「翠玉包み」の輝きが曇ることはない。

慶太は、自分を信じてくれる仲間と、隣に立つ恵美、そして至高の食材だけを信じ、静かに開店の暖簾(のれん)を掲げた。

「いらっしゃいませ」

その声は、かつての傲慢な社長のものではなく、一人の真摯な職人、六車慶太の再生を告げる力強い響きを持っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ