第37話 六車慶太
高松駅近くの路地裏。開店を数日後に控えた居抜き物件の店内で、慶太は頭を抱えていた。
「……蓮見餃子が、使えない」
商標調査の結果、かつての「ハスミ」に関連する名称や、類似する「蓮見餃子」という名は、法的・権利的なしがらみで登録できないことが判明したのだ。佐伯によって汚された「蓮見」という名。再出発の看板に掲げるには、あまりに多くの毒が混じりすぎていた。
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カウンターで項垂れる慶太の隣で、恵美は静かにバッグを開き、一通の封筒を取り出した。
「慶太。その名前はもう、捨てなさいってことよ。……代わりに、これを使って」
彼女が差し出したのは、二年前、家を出る際に密かに彼女が個人名義で手続きを済ませていた、商標登録の受領証だった。
「あなたがまだ社長だった頃に言っていたでしょう? いつか二人で、本当に納得できるものだけを包む店を作りたい。その時は『翠玉包み』にしたいって。佐伯さんに奪われないように、あの時、私が守っておいたの」
受領証には、力強い筆致で『翠玉包み』の名が刻まれていた。
慶太は言葉を失った。効率と拡大に憑りつかれていた頃の自分との約束を、恵美はずっと、大切に抱きしめてくれていたのだ。
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「翠玉包みは……お前が持っていてくれたのか。……ありがとう、恵美」
慶太は溢れそうになる涙を堪え、その紙を握りしめた。さらに彼は、もう一つの決意を口にする。
「店の名前は決まった。……そして恵美、俺は名字も変えるよ。蓮見を捨てて、お前の旧姓をもらいたい。俺を、六車慶太にしてくれないか」
恵美は驚いたように目を見開いたが、すぐに優しく微笑んだ。
「……いいわよ。讃岐の『六車』。土の匂いがする、不器用で真っ直ぐなあなたの名前に、ぴったりだわ」
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翌日、店の前には一枚の清々しい木看板が掲げられた。
そこに刻まれたのは『翠玉包み』。
厨房では、市場で仕入れたばかりの岡山の黄ニラが、慶太の手によって黄金色の餡へと変わっていく。
「六車さん、開店おめでとう!」
市場の仲間たちの威勢のいい声が響く。
佐伯が「鰻八」という虚飾の城とともに自滅し、戒告の中で孤独に沈んでいくのを他所に、六車慶太は、自分を信じて待ってくれた妻と共に、新しい火を灯した。
翠玉の輝き。それは、一度すべてを失い、泥にまみれて働き抜いた男だけが包める、真実の味だった。
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高松の路地裏、開店を直前に控えた「翠玉包み」に、冷ややかな悪意が影を落とした。
ネット上のグルメサイトやSNSに、根も葉もない誹謗中傷が次々と書き込まれ始めたのだ。
『元食中毒企業の再生品』
『不衛生な食材の使い回し』
まだ開店前だというのに、最低評価の星が並び、悪意に満ちた言葉の礫が慶太たちを襲う。
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慶太は、厨房でスマホの画面をじっと見つめていた。
かつての自分なら、この卑劣な手口の裏に誰がいるのかを血眼になって探し、復讐心に燃えていたかもしれない。しかし、今の彼は違った。
「……誰がやっているかは、どうでもいいんだ」
慶太は静かにスマホを置いた。それが佐伯の仕業である可能性など、今の彼の頭にはなかった。誰かの恨みを買ったのか、あるいは単なる悪戯か。そんな推測に費やす時間は、今の慶太には一秒も残されていない。
「恵美。……俺たちは、俺たちのやるべきことをしよう」
慶太が目を向けたのは、まな板の上に並んだ岡山の黄ニラだった。
市場の仲間たちが「一番いいやつだ」と笑って持たせてくれた、黄金色の命。この香りを、この甘みを、最高の一皿に仕上げること。それだけが、外野の雑音に対する唯一の答えだと知っていた。
「そうね、慶太。……嘘の言葉は、本物の味に触れれば消えてしまうものよ」
恵美もまた、揺らぐことなく開店の準備を進めていた。画面の中の虚像ではなく、目の前の現実だけを見つめていた。
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翌朝、市場へ向かうと、顔馴染みの仲卸たちが慶太の肩を叩いた。
「六車さん、変な噂があるみたいだが、気にするなよ。あんたがどれだけ泥にまみれて働いてきたか、俺らが証明してやる」
佐伯が都会の片隅で、戒告の身でありながら必死に匿名のアカウントを操り、慶太の足を引っ張ろうと躍起になっていることなど、今の慶太には届かない。
慶太が鉄鍋に火を入れる。
ジュワッという音と共に、黄ニラの鮮烈な香りが店内に広がった。
どれだけ泥を投げつけられようと、自分たちが練り上げた「翠玉包み」の輝きが曇ることはない。
慶太は、自分を信じてくれる仲間と、隣に立つ恵美、そして至高の食材だけを信じ、静かに開店の暖簾を掲げた。
「いらっしゃいませ」
その声は、かつての傲慢な社長のものではなく、一人の真摯な職人、六車慶太の再生を告げる力強い響きを持っていた。




