第36話 産声
彼は以前にも増して、狂ったように仕事に精を出した。午前中は市場で泥にまみれてコンテナを運び、午後は一軒一軒、理想の場所を求めて街を歩き回る。その生活の中で、慶太の「目」はかつてないほどに研ぎ澄まされていった。
彼はノートに、季節ごとの一番美味しい産地を徹底的に調べ上げたデータを蓄積していった。それは売上のための数字ではなく、素材の命を使い切るための「職人の地図」だった。
特にこだわったのは、地元瀬戸内の至宝、岡山の「黄ニラ」だ。光を遮り、手間暇かけて育てられたその黄金のニラは、気品ある香りと深い甘みを湛えている。慶太は、この繊細な食材を、自らの再起を賭けた「翠玉包み」の核に据えた。
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そんな折、高松駅の近くで、小さなうどん屋の居抜き物件に出会う。
年季の入った木のカウンター、出汁の香りが染み付いた壁。一等地の華やかさはないが、ここには人々の日常の営みがあった。
「……ここだ。ここで、俺の餃子を焼く」
慶太は、市場での重労働で貯め抜いた軍資金を手に、日本政策金融公庫の門を叩いた。
窓口で彼が差し出したのは、整然とした言葉の並ぶ計画書だけではない。机の上に置かれたその手は、節くれ立ち、いくつもの火傷の跡と深いマメが刻まれていた。
「以前の私は、食を『数字』でしか見ていませんでした。ですが、今は違います。地元の食材の息吹を、食べる人の体温に変えたいんです」
担当者は、その「職人の手」をじっと見つめ、静かに融資の決定を告げた。
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一方、都会で虚飾の城を築いていた佐伯は、自らが撒いた毒に飲み込まれようとしていた。
「バイトが焼く味」に背を向けた消費者、そして不当なロイヤリティに喘ぐ加盟店オーナーたちの怒りが爆発したのだ。佐伯は勝ち逃げを図ったが、世間はそれを許さなかった。会社からは厳しい「戒告」を下され、かつての寵児は、怒号と追及の渦の中へと沈んでいった。
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開店を数日後に控えた夜。
慶太は、松山の恵美に電話をかけた。
「店が決まったよ。駅のすぐ近くだ。……一番いい黄ニラを仕入れて、待ってる」
「……ええ。私も、すぐに向かうわ」
電話越しの恵美の声は、瀬戸内海の波のように穏やかで、力強かった。
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高松の路地裏、小さな店の灯がともる。
かつてすべてを失った男が、泥の中から掴み取った「本物の味」。
黄ニラの気品ある香りと、キャベツの生命力が、蓮見の「人間味」という皮に包まれて、鮮烈な産声を上げる。
これぞまさしく、翠玉包み。
慶太と恵美、二人の本当の物語が、今、静かに幕を開けた。




