表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
37/57

第36話 産声

彼は以前にも増して、狂ったように仕事に精を出した。午前中は市場で泥にまみれてコンテナを運び、午後は一軒一軒、理想の場所を求めて街を歩き回る。その生活の中で、慶太の「目」はかつてないほどに研ぎ澄まされていった。

彼はノートに、季節ごとの一番美味しい産地を徹底的に調べ上げたデータを蓄積していった。それは売上のための数字ではなく、素材の命を使い切るための「職人の地図」だった。

特にこだわったのは、地元瀬戸内の至宝、岡山の「黄ニラ」だ。光を遮り、手間暇かけて育てられたその黄金のニラは、気品ある香りと深い甘みを湛えている。慶太は、この繊細な食材を、自らの再起を賭けた「翠玉包み」の核に据えた。

そんな折、高松駅の近くで、小さなうどん屋の居抜き物件に出会う。

年季の入った木のカウンター、出汁の香りが染み付いた壁。一等地の華やかさはないが、ここには人々の日常の営みがあった。

「……ここだ。ここで、俺の餃子を焼く」

慶太は、市場での重労働で貯め抜いた軍資金を手に、日本政策金融公庫の門を叩いた。

窓口で彼が差し出したのは、整然とした言葉の並ぶ計画書だけではない。机の上に置かれたその手は、節くれ立ち、いくつもの火傷の跡と深いマメが刻まれていた。

「以前の私は、食を『数字』でしか見ていませんでした。ですが、今は違います。地元の食材の息吹を、食べる人の体温に変えたいんです」

担当者は、その「職人の手」をじっと見つめ、静かに融資の決定を告げた。

一方、都会で虚飾の城を築いていた佐伯は、自らが撒いた毒に飲み込まれようとしていた。

「バイトが焼く味」に背を向けた消費者、そして不当なロイヤリティに喘ぐ加盟店オーナーたちの怒りが爆発したのだ。佐伯は勝ち逃げを図ったが、世間はそれを許さなかった。会社からは厳しい「戒告」を下され、かつての寵児は、怒号と追及の渦の中へと沈んでいった。

開店を数日後に控えた夜。

慶太は、松山の恵美に電話をかけた。

「店が決まったよ。駅のすぐ近くだ。……一番いい黄ニラを仕入れて、待ってる」

「……ええ。私も、すぐに向かうわ」

電話越しの恵美の声は、瀬戸内海の波のように穏やかで、力強かった。

高松の路地裏、小さな店の灯がともる。

かつてすべてを失った男が、泥の中から掴み取った「本物の味」。

黄ニラの気品ある香りと、キャベツの生命力が、蓮見の「人間味」という皮に包まれて、鮮烈な産声を上げる。

これぞまさしく、翠玉包み。

慶太と恵美、二人の本当の物語が、今、静かに幕を開けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ