第35話 翠玉包み
佐伯の計算は、どこまでも自分本位な「出口戦略」を描いていた。
『鰻八』の崩壊が目に見えて加速し始めた頃、彼はすでに損切りの準備に入っていた。
「システムは提供した。失敗したのは現場の経営能力のせいだ」
そう嘯き、会社を清算して莫大な個人資産と共に勝ち逃げを決め込もうとしたのだ。
だが、世間は彼が思うほど甘くはなかった。
「ふざけるな! 全部お前の言った通りにやった結果がこれか!」
本社のロビーには、全財産を投げ打って加盟したオーナーたちが連日押し寄せ、怒号が響き渡った。佐伯が「効率」という美名の下に隠してきた、非人道的なロイヤリティ設定と杜撰な指導。その実態がSNSや週刊誌で次々と暴かれ、かつての「時代の寵児」は一転して、「地方の善良な人々を食い物にした詐欺師」として指弾の的にされた。
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逃げ道を塞いだのは、彼を担ぎ上げていたはずの親会社だった。
ブランドイメージを致命的に汚された会社側は、佐伯をトカゲの尻尾として切り捨てた。彼に突きつけられたのは、厳しい「戒告」と、事実上の追放宣告だった。
かつて蓮見を冷笑していたあの高層ビルのオフィスも、磨き上げられたデスクも、もう彼の居場所ではない。佐伯は、自分を「賢者」と信じ込ませていた虚飾の鎧を、世間の憎悪によって一枚ずつ剥ぎ取られていった。
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同じ頃、蓮見は高松の市場での最後の日を終えようとしていた。
「蓮見さん、本当に行っちまうのか。寂しくなるな」
仲卸の親父たちが、別れを惜しんで特大のキャベツや最高の状態の岡山産黄ニラを、餞別として持たせてくれた。
蓮見が手に入れたのは、佐伯が最後まで理解できなかった「人と食材への信頼」という、目に見えない資産だった。
彼はアパートの荷物をすべて処分し、残ったのは最低限の着替えと、二年間研ぎ続けた包丁、そして半年間の重労働で貯め抜いた軍資金だけだ。
「……待たせたな、恵美」
蓮見は、黄金色の黄ニラを大切に鞄にしまい、高松駅のホームに立った。
彼が向かうのは、巨大なチェーン店でも、きらびやかな旗艦店でもない。
半年前に恵美と約束した、誰かの「生活」の隣にある、小さな、本当に小さな自分の店。
佐伯が都会の喧騒の中で、自らが撒いた「負の連鎖」に飲み込まれていくのを余所に、蓮見はただ静かに、瀬戸内海を渡る列車に乗り込んだ。
その瞳には、もう迷いはない。
失った味覚の代わりに手に入れた、旬の食材の微かな呼吸と、一人の女性への誓い。
蓮見慶太としての新しい人生が、松山の海風と共に、今、始まろうとしていた。
◆
松山の夜は、潮騒の音だけが穏やかに響いていた。
居酒屋の閉店後、再び借りた厨房で、蓮見は静かに「その時」を待っていた。
まな板の上には、餞別として受け取った岡山の黄ニラ。そして、半年間、市場で自ら泥を払い、目利きし続けた最高級のキャベツが並んでいる。
トントン、トントン……。
包丁の音は、かつての迷いを断ち切るように澄んでいた。
黄ニラを刻むたびに、気品ある鮮烈な香りが厨房を満たす。肉の脂と混ざり合い、素材同士が互いの存在を祝福し合うような、温かくも力強い香気。
蓮見は、自分の節くれ立った指先で、丁寧に皮を閉じていく。
かつてのハスミの餃子が、計算され尽くした「冷たい完成品」だったとするなら、今この手の中で生まれているのは、蓮見という男の体温そのものを宿した「生きた料理」だった。
◆
焼き上がった皿が、カウンターに置かれる。
「……食べてくれ、恵美」
恵美は、無言で一粒の餃子を口に運んだ。
その瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれ、そして潤んだ。
「……っ」
それは、以前の「正しい味」とは全く別のものだった。
地元の土が育てた野菜の野性味と、黄ニラの高貴な香りが、蓮見の歩んできた二年間という歳月を乗せて、口の中で鮮烈に弾ける。
不器用で、泥臭くて、けれど誰よりも誠実で――食べる者の魂を揺さぶるような、深い人間味がそこにはあった。
「……これ、だね。慶太」
恵美は、溢れそうになる涙を堪えながら、愛おしそうに餃子を見つめた。
「ただの餃子じゃない。……これぞまさしく、翠玉包み(すいぎょくづつみ)」
◆
翡翠のように美しい野菜の輝きを、慶太の情熱という皮で包み込んだ、唯一無二の一皿。
佐伯が都会で「数」を競い、加盟店からの追及や戒告という名の自業自得に沈んでいく中、蓮見はこの小さな厨房で、ついに「無限の価値」を持つ一皿に辿り着いたのだ。
「恵美……」
「うん。約束通り、一緒にやろう。慎ましくても、世界で一番温かいお店を」
恵美が差し出した手。その掌には、彼女がこの二年間、自らの足で立って生活を守り抜いてきた証の、硬いマメがあった。
二人の手が、しっかりと重なる。
かつて、名声と効率のために「本物」を切り捨てた男は、今、瀬戸内の潮風の中で、最も大切な人と「本物の味」を取り戻した。
高松の市場で浴びた朝陽。岡山の黄ニラの黄金。
それらすべてが、これからの二人の歩む道を、翠玉の輝きで照らし出していた。




