第33話 最後の仕込み
居酒屋の片付けが終わり、看板の灯が落ちた。
夜の静寂が訪れた海沿いの道。蓮見と恵美は、寄せては返す波の音を聞きながら、ゆっくりと歩き出した。
二年の空白を埋めるように、夜風が二人の間を通り抜けていく。
「……美味しかったよ、慶太。本当に」
恵美がぽつりと言った。
「でもね、さっきも言った通り、何かが違うの。あの頃、私たちが必死に包んでいた餃子は、もっと……もっとあなたの体温がしていた気がする」
蓮見は、隣を歩く恵美の横顔を盗み見た。
かつてのような豪華な暮らしはない。彼女の指先も、仕事で少し荒れている。すべては自分の傲慢さが招いた結果だった。
◆
「恵美。……あと半年、市場で働かせてくれ」
蓮見は足を止め、暗い海に向かって言った。
「この二年で、体の中の毒は抜けた。目利きも戻った。でも、お前の言う通り、肝心の『心』をどこかに置き忘れてきたのかもしれない。あと半年、市場で泥にまみれて、もっとお金を貯める。自分の力だけで、小さな、本当に小さな店を出したいんだ」
潮騒の音だけが響く。
「その時までに、俺はあの味を取り戻す。いや、あの頃を超えてみせる。だから……」
蓮見は深く頭を下げた。
「店を出す時、協力してほしい。お前の舌と、お前の笑顔が、俺の料理にはどうしても必要なんだ。……勝手な言い分なのは分かっている。でも、もう一度だけ、俺と一緒に歩いてくれないか」
◆
恵美は、しばらく黙って海を見つめていた。
彼女が待っているのは、目の前にいるこの不器用な男が、自らの罪を、人生の滋味へと昇華させる瞬間だけだった。
「……半年後ね」
恵美は、ふっと慶太の方を向いて微笑んだ。
それは、二年前の絶望的な別れの時には決して見せなかった、暖かな希望の光を宿した目だった。
「わかった。待ってる。慶太が本当に『自分の顔』をした餃子を作れるようになるまで、私もここで、しっかり自分の生活を積み上げておくから」
「……恵美」
「半年後、その餃子を食べさせて。もしその時、私が『これだ』って思えたら……その時は、また二人で厨房に立とう」
蓮見は、拳をぎゅっと握りしめた。
鞄の中の包丁が、これまで以上に重く、誇らしく感じられた。
二年の仕込みは、まだ終わっていなかった。
あと半年。
一人の男が、本当の「5個200円」の重みを知るための、最後の、そして最も大切な仕込みの時間になるはずだった。
「……ああ。必ず、迎えに来る」
二人の影が、松山の夜の帳に溶けていく。
蓮見の心には、もう迷いはなかった。
◆
高松に戻り、再び市場の冷たい空気の中で、彼は最後の修行へと身を投じる決意を固めていた。
高松に戻った蓮見の生活は、これまで以上に凄絶なものとなった。
午前三時の市場。吐く息が白く凍る冬の朝も、湿気が肌にまとわりつく梅雨の夜明けも、彼は誰よりも早く現場に立ち、誰よりも遅くまでコンテナを運び続けた。
「蓮見さん、今日は一段と気合が入ってるな」
仲卸の親父たちも驚くほどの働きぶりだった。だが、彼が以前と違っていたのは、ただ身体を動かすだけでなく、その「目」と「頭」を研ぎ澄ませていたことだ。
蓮見は、手垢のついたノートに、季節ごとの一番美味しい野菜の産地を細かく書き留めていた。かつて経営者として見ていた「仕入れ値」のデータではない。その土地の土質、日照時間、そして生産者のこだわりが味にどう反映されるかという、生きた食の地図だった。
「……今は、愛知のキャベツが一番甘みを蓄えている。だが、来月になれば九州のものが良くなる」
彼は、市場に並ぶ野菜一つひとつの「旬の脈動」を、指先の感触で捉えようとしていた。
◆
さらに蓮見が着目したのは、地元の至宝とも言える食材だった。
中でも、岡山の「黄ニラ」。
通常のニラとは違い、光を遮って栽培されるその希少な野菜は、独特の柔らかな食感と、気品のある甘み、そして淡い高貴な香りを放つ。
(これだ……。この繊細な香りが、肉の脂を包み込み、キャベツの甘みを引き立ててくれるはずだ)
フランチャイズの時は効率と原価を優先し、安価な中国産のニラを大量に使っていた。だが、今の蓮見は知っている。たったひとつの「本物」の食材が、料理にどれほどの「体温」を宿すかを。
◆
仕事が終わった後、慶太はアパートの台所で、その黄ニラを慈しむように刻んだ。
トントンと響く包丁の音。
黄ニラの淡い黄色が、肉の赤身と重なり合う。
かつてのハスミの餃子が「暴力的な刺激」だったとするなら、今の彼が目指すのは「静かな調和」だった。
(恵美が言っていた『俺の顔』……。それは、この土地で、この季節にしか出せない味と向き合うことなんじゃないか)
「5個200円」という制約の中で、どうやってこの至高の食材を活かすか。
原価計算をしながら、彼は何度も試作を繰り返した。
黄ニラを贅沢に使いすぎれば値段が跳ね上がる。だが、その香りを最大限に引き出す切り方と、火入れのタイミングさえ掴めば、少量の使用でも「忘れられない味」に昇華できる。
慶太の指先は、黄ニラの繊細な繊維を傷つけないよう、羽毛を扱うように優しく、しかし確信を持って動いた。
「……もう少しだ」
市場で泥にまみれて稼いだ金は、一円たりとも無駄にはできない。それは恵美と一緒に店を出すための「血」であり、新しい店に並べる食材を支える「骨」となるものだから。
岡山の黄ニラ、最高のキャベツ、徳島の豚肉。
四国・瀬戸内の恵みを、慶太は自分の「罪」と「希望」で練り上げていく。
半年後の再会まで、あと数ヶ月。
高松の狭いアパートの窓から見える朝焼けは、慶太が手にする黄ニラと同じ、優しくも力強い黄金色に染まり始めていた。




