第32話 足りない何か
伊予鉄の終着駅から少し歩いた、潮の香りと古い家並みが混じり合う静かな一角。
蓮見が恵美から送られてきた場所は、観光客など一人も来ないような、地元の漁師や仕事帰りの人々が集う小さな居酒屋だった。
「酒処・魚万」
控えめな暖簾が夜風に揺れている。かつて蓮見が「ハスミ」の旗艦店としてプロデュースした、大理石と間接照明の店とは正反対の、油の匂いと笑い声が染み付いた場所だ。
蓮見は暖簾の前で立ち止まった。
鞄の中には、布に包んだ一振りの包丁。二年間、市場の泥にまみれ、深夜の台所で血が滲むほど研ぎ続けた、自分の魂そのもの。
◆
意を決して、引き戸を引いた。
ガラガラという乾いた音と共に、店内の熱気が溢れ出す。
「いらっしゃい!」
威勢のいい声の中に、聞き慣れた、けれど少しだけ強くなった彼女の声が混じっていた。
カウンターの奥で、忙しく立ち働く恵美の姿があった。
髪を後ろで束ね、清潔なエプロンを締め、常連客と冗談を言い合いながら、てきぱきと刺身を盛り付けている。そこには「社長夫人」としての虚飾を脱ぎ捨て、地に足をつけた一人の職人としての輝きがあった。
恵美は入り口に立つ蓮見に気づくと、一瞬だけ手を止めた。
客席の喧騒が、蓮見の耳から遠のく。
二年前、高松で別れた時の蓮見は、添加物で顔を腫らし、絶望に目を濁らせた死人のようだった。だが、今の彼の目は、市場の朝陽と厳しい冬を越えて、驚くほど澄んでいる。
「……来たのね」
恵美は短くそう言うと、いつものように穏やかな、しかしどこか試すような微笑みを浮かべた。
「そこに座って。今、一段落するから」
◆
蓮見はカウンターの隅に腰を下ろした。
周囲では、漁師たちが今日獲れた魚の話をし、佐伯が仕掛けた『鰻八』のCMが流れるテレビを見向きもせず、目の前の安くて旨い酒を楽しんでいる。
都会で膨れ上がった佐伯の虚城など、ここでは何の意味も持たなかった。ここにあるのは、命を繋ぐための本物の「食」の風景だ。
恵美は蓮見の手をじっと見つめ、慈しむように、けれど厳しく指先で触れた。
「……変わったね、慶太」
その呼び名に、蓮見の心臓が大きく跳ねた。
高松の小さな厨房で、二人で夢を見ていたあの頃のままの、自分を真っ直ぐに呼ぶ声。
「あの日、あえて連絡しなかったのはね……。あなたがその手になるまで、私がそばにいたら、あなたはきっと自分を甘やかして、本当の罪を忘れてしまったから」
恵美の瞳には、哀しみよりも深い、確かな信頼が宿っていた。彼女は、慶太が自らの力で泥の中から這い上がってくるのを、誰よりも強く信じて待っていたのだ。
◆
「……分かっている、恵美」
蓮見は震える手で、鞄から重みのある包丁の包みを取り出した。
「俺に、この厨房を貸してくれないか。一皿だけでいい。君に、確かめてほしいんだ。……俺が今、何を作っているのかを」
店内の一角で、常連客が「おい、恵美ちゃん! 今日は餃子はないのか?」と陽気に声を上げる。
恵美は慶太の目を見つめ返し、無言で、自分の巻いていた予備のエプロンを彼に差し出した。
「いいよ、慶太。……そのために、この二年間があったんでしょう?」
都会では、佐伯が『鰻八』という虚飾の旗を掲げ、効率と嘘で世界を塗り替えている。だが、この小さな「酒処・魚万」の厨房には、そんな不純な風は一切入り込まない。
◆
慶太はエプロンを締め、調理場へと一歩踏み込んだ。
まな板の上に、二年間研ぎ続けた包丁を置く。
(見ていてくれ、恵美)
彼は市場で譲り受けた、瑞々しいキャベツを取り出した。
トントン、と、包丁がリズムを刻み始める。
それはかつての機械的な音ではない。失った味覚と、失った時間、そして一人の男の再生を賭けた、心臓の鼓動と同じ音だった。
二年間の「仕込み」のすべてが、今、この一皿に凝縮されていく。
慶太がキャベツを刻む手元を、恵美は少し離れた場所から、祈るような眼差しで見守っていた。その横顔には、二年前にはなかった、静かな職人の矜持が宿っていた。
厨房には、香ばしい油の匂いと、鉄鍋が弾けるような活気のある音が満ちていた。
◆
慶太が焼き上げた餃子は、見事な黄金色の羽根を纏い、皿の上で誇らしげに輝いている。カウンターに並べられた瞬間、常連の漁師たちが身を乗り出した。
「おい、これだよこれ! 恵美ちゃん、この兄ちゃん、いい腕してるじゃないか!」
「皮がモチモチで、中からジュワッと甘い汁が出てくる。最高だ!」
客たちの賞賛は本物だった。二年間、慶太が市場でキャベツと対話し、深夜の台所で粉まみれになって掴み取った技術。それは、かつての「ハスミ」の工場製品とは比較にならない、力強く優しい「食」の味だ。
だが、慶太の視線は客たちの笑顔には向いていなかった。
カウンターの端で、箸を置き、じっと一粒の餃子を見つめる恵美。彼女は一口食べたきり、二口目に手が伸びない。その表情は、期待していた安堵や喜びではなく、どこか遠くを見つめるような、浮かない曇りを帯びていた。
◆
「……恵美」
慶太が声を絞り出す。
「どうなんだ。何が、足りない?」
恵美はゆっくりと顔を上げ、慶太の目を見つめた。その瞳には、彼を否定するような色はなかったが、同時に「正解」を告げる輝きもなかった。
「……慶太。この二年間、本当に頑張ったんだね。キャベツの甘さも、皮の弾力も、市場で働いてきたあなたの『誠実さ』が全部伝わってくる。お客さんも、みんな美味しいって言ってる。それは本当のことだよ」
彼女は一度言葉を切り、寂しげに微笑んだ。
「でもね……今のあなたの餃子には、あなたの『顔』が見えないの。……ううん、あなたの『罪』が見えない」
慶太は息を呑んだ。
「この味は、あまりに綺麗すぎる。誰にでも愛される、非の打ち所がない『正当な味』。でも、私が知っている、そしてあなたが一度は捨ててしまったあの餃子は……もっと、不器用で、泥臭くて、食べる人の心をかき乱すような『何か』があったはずなのよ」
恵美は慶太の、節くれ立った大きな手を見つめた。
「佐伯さんに勝とうとしていない? あるいは、自分を許してもらうために、完璧な料理を作ろうとしていない? ……慶太。料理は、自分を正当化するための道具じゃないわ」
◆
何かが足りない。
それは、高級な食材でも、洗練された技術でもなかった。
慶太がこの二年間、必死に削ぎ落としてきた「人間の生々しさ」や、一条えみりから奪った「執念」、そして恵美と二人で分け合った「生活の痛み」。それらが、技術という鎧の下に隠れてしまっている。
「これじゃあ、佐伯さんの『鰻八』と同じよ。向こうは効率を追求し、あなたは正しさを追求している。どちらも、食べる人の『魂』にまでは届かない」
恵美の言葉は、二年間研ぎ続けた包丁よりも鋭く、慶太の胸を貫いた。
客たちの「美味しい」という声が、急に遠くの雑音のように聞こえ始める。
慶太は、まな板の上に残ったキャベツの芯を握りしめた。
自分はまだ、本当の意味で「5個200円」の深淵に触れていなかったのかもしれない。
「恵美……もう一度、やらせてくれ」
「いいよ。夜は長いんだから」
恵美はそう言って、彼が次に何をすべきか、そのヒントさえも口にせず、ただ静かにグラスを磨き始めた。
慶太は再び、自分の手を見つめる。
足りない何かを、自分の記憶の、もっと深く、暗い場所から引き摺り出してこなければならなかった。




